目次 巻頭言 北京における対話   代田智明 1
各部会研究会報告・予定 6
『現代中国』投稿規定の改正について 7
広報委員会の設置について・事務局より 9
組織状況・編集後記 10

巻頭言

北京における対話 ――ナショナリズム談義
関東部会理事  代田 智明

 元旦といっても、中国では単なる休日なので、屠蘇気分などという雰囲気はないのだが、それでも新年早々、小泉首相の靖国初詣のニュースが飛び込んできて、あっけにとられた。ただあっけにはとられたものの、さもありなんとも思い直した。
イラクへの陸自派遣は目の前である。現地の治安は不透明で、危険度はかなり高い。だからこそ、派兵に対して日本の世論も消極的なのだろう。これで自衛隊員に死者が出れば、批判が強まって、珍しく高支持率を保っている小泉内閣も危ない。昨年末、外交官2名の葬儀は、厳かで大々的なわりに、たいした効果がなかった。ここは、過去の「英霊」にすがり、死者が出たら「英霊」として祭り上げ、民族意識に訴えて乗り切るしかない。いやうまくいけば「国民的統合」が高まり、改憲論議が有利になる。そんな魂胆ではないかと。
北京ではおきまりの批判で、A級戦犯を合祀した靖国という常套句が繰り返されるばかり、目新しい議論はない。冷静な分析がない分、単なるナショナリックな感情が強調されるのみ、という危惧も感じられる。
実際昨年は、珠海や西安の事件を見るとおり、「草の根」レベルの対日感情がかなり悪化しているのが感じられた。そこではもとより、日本の「草の根」レベルで、鈍感さや非常識さが問われたと言えるが、ナショナリズムに取り込まれた中国民衆の感情が反映されてもいよう。正直言うと、こちらに来るまでは、中国国内のナショナリズムがここまで激化しているとは、皮膚感覚としては捉えられなかった。
北京の勤め先、北京日本学研究センターでは、「日中文学文化比較研究」という、融通無碍な題名の授業を担当している。1年派遣の二人で1学期を半分ずつ8、9回のコマを担当するのだが、上のような理由で、秋学期は意図的に「ナショナリズム」をテーマとすることにした。
テクストは香山リカ『ぷちナショナリズム症候群』(中公新書)、小熊英二・上野陽子『<癒し>のナショナリズム』(慶應大学出版会)、姜尚中・森巣博『ナショナリズムの克服』(集英社新書)の3冊。日本のナショナリズムの現状を紹介、分析しながら、ナショナリズムに対する批判的で客観的な視点を養うのが授業の目的である。日本のことを中心に説明するので、日中比較は講義に基づき、聴講者自身が自覚的に行う。教授者は、折に触れて中国にも言及する、ということにした。聴講生は修士大学院生中心で、おおよそ30名。
1回100分の授業の最後に、質問や感想などのコメントを書いてもらい、次回に意見や応答を付したプリントを配布する。途中で書名を伏せた形で『新しい歴史教科書』(扶桑社)の一部をコピーで配布、その歴史記述に関する感想を書いてもらい、それも授業で扱った。以下はそんな授業のコメント応答プリントのうち、後半を中心にほぼ授業順に拾ったもの。ゴシック部分は授業者の回答である。
 まずは、『新しい歴史教科書』のみんなの感想(ごく一部だが肯定的なものもあった)を紹介し、そのうえで、教授者の批判も加えた、その授業についてコメントのやり取りを列挙する。なかで南京大虐殺と靖国神社に関するこちらの意見も述べた。前者については、30万という数字は保留するが、大虐殺は事実として認めるべき、重要なのは一人ひとりの生命が失われたことと述べた。後者は、日本の軍国主義のシンボルであって、A級戦犯合祀に関わらず、存在そのものが問題であると述べてある。

1−1 今は日本版の"新しい歴史教科書"をざっと読んでみて、感情をもつ人間にとって、純粋に理性的に人文科学として分析することは不可能ではないかという疑問さえ出てきた。⇒ 立場が違っても、対話によって、相手に弱点を気が着かせ、うまくいけば考えを変えさせること。そのためには、感情的になることは害はあっても利益はありません。感情は大切ですが、学問はそれを奥に秘めた動力として、できうる限り「理知的」に物事を分析し、判断すべきです。そうでないと、感情的な相手と同じレベルになり、却って、相手の存在を意味付ける補完物になってしまいます。

1−2 資料(『新しい歴史教科書』から出典)に対する先生のご批評(或は批判と言えるが)は極軽く扱おうとしていたように思われる。何故ならば、先生が単に教科書の言葉の表現上の問題を取り上げて、その実質、所謂「作る会」の人たちのもつ歴史観こそ問題が存在するという点にあまりふれなかったようなので。⇒ 批判には、内在的批判と外在的批判とがあります。歴史観を批判するとして、日本の過去の軍国主義を肯定しようとしている、ということでしょうか。こういう批判を外在的批判といい、立場やイデオロギーがはっきりしない場合にそれを暴くときは有効です。しかしこの場合、彼らはある程度自覚的ですし、そういう批判はいつもの「左翼」的批判で、それは立場が違うと言うでしょうから、彼らと「対話」ができません。対話のできない批判は、相手に打撃を与えるという意味で効果的ではないし、世論に影響力をもつという意味で建設的ではありません。こういう場合、有効なのは内在的批判で、相手の主張がその目的にも合致していないことを指摘します。ここでは、日本社会を担う健全な人間の育成という教育の立場から批判したわけです。この立場は、中国で中国の教科書を検討する場合にも、あてはめられる普遍性をもっています。

1−3 先生は日本にいるとき、このようなお考えでほかの人を説得して、広めようとしますか? 実は、これは知識人の社会に対する「責任」と思いますが。⇒ 機会があれば、意見を述べています。ただ、私は自分が知識人だという意識はほとんどありません。日本の社会で、知識人という階層はすでに崩壊しているというのが私の認識です。「責任」という点では、日本社会を構成する一人として、という意識であって、それ以上ではありません。そんな私からすると、東大教授が偉いなどと思うのは、大変な権威主義者に思えます。なお、他人の「責任」を問う場合は、ご自分が当事者か、自分はどういう責任を果たしているかを提示すべきだと私は考えます。あなたは、中国社会で少数と思われる意見を、他人に対して、説得する活動をしていますか?

1−4 日本人は[歴史認識について]私の考える通りの日本人でないと気付かなければならない。⇒ これはあなたが気づかなければならない、という意味でしょうか。それとも主語は「日本人」ですか。後者だとすると、ある人が「私の考える通り」でなければならない、という一般論は横暴です。あなた、という固有名詞をそんなに絶対化できませんから。前者だとしても「日本人」を簡単に一まとめにはできないはずで、いろいろな考えの中国人がいるように、いろいろな考えの日本人もいます。それを単一に把握しようとするのは危険です。「私の考える通りの」人や物ばかりだと感じたら、それこそ「他者」を排除している、「他者」と出会うことを避けている恐れがあります。「考える通り」でないものは、思考のきっかけになるものです。

1−5 圧力、危機感というのは、日本にとって、大事な意識だけでなく、中国にとっても、これから意識しなければならないことだと思う。そしてどういうふうにこの圧力、危機感を生かすのかは、更に重要だと思う。⇒ 圧力や危機感から、被害意識を強め、自分より落後したものを見いだして優越感を抱く、というのが、ある意味で日本の近代化でした。というより、この日本の近代化を典型として、近代化には、そういう被害意識と優越意識がつきまとっています。しかし一方で、覇権的な政策にどう対抗するか、という課題が残るでしょう。被害意識と優越意識を混在させる(これは実は阿Qと同じでもあるのですが)、そんな自分を相対化する視点を持ちつつ、「他者」と協働してどう対抗するかが課題でしょう。

1−6 国によって、民族によって、歴史への語りが食い違いが出ても、あたりまえのことだと思います。国家が存在するかぎり、この問題は解決できないと思っています。
1−7 国家利益に合うものを通し、合わないのを拒否するのはどの国でも同じではないでしょうか。例えば日本の教科書検定制度、歴史を学ぶとは、自分の利益要求に即してすべきものと思います。⇒ 個人を国家に強く結びつけるとそういう思考から抜け出せないでしょうが、個人はもう少し自由に、それ以外の立場に帰属できます。個人がナショナリズムから離れれば、歴史を国家とは別の視点から見ることも可能になってきますし、東アジア共通の歴史というのも可能になるでしょう。お二人は随分、国家主義者のようですが、国民国家は絶対の存在ではありません。そもそも「想像の共同体」なのですから。またたとえ国家を前提としても、それぞれが利益のみに従うとしたら、地域や世界の共同や平和をどう構築するのですか。

 なかなかガードは固い。つぎの授業では、『<癒し>のナショナリズム』から、「新しい歴史教科書を作る会」の下部組織的な存在である「史の会」の実態を紹介し、その問題点を考えた。議論はそろそろ山場を迎え、本質的な問いかけが出てくる。

2−1 日本人のほとんどは中国人が嫌いだという結論が出てきますね。実は中国人のほとんどは日本人が嫌いだという気がします。そうすると、中日関係には、本当に心配を抱いています。⇒ このアンケートから「日本人のほとんどは中国人が嫌いだ」という結論を導くのは危険です。第一にこれは、中国について聞いたので、中国人についてではない。第二に、一般の日本社会の人々とはいえ、保守を自覚している人々を対象にしています。第三に、中国に対する好感度は最近落ちているとはいえ、ひどく低いわけではない。第四に日本人とか中国人とか一まとめにはできないので、一般化すべきではないからです。同じことは、中国人のほとんどが日本人を嫌いだ、という考えにも似たような疑問が生じます。そういう人は確かにいるでしょうが(国家については別として)たとえば「日本人だから彼は嫌いだ」というのだとしたら横暴です。

2−2 このような[多様性を排除する]ナショナリズムが必ず今全世界に起きている。グローバル化が勃興しているのに、多様化、異質的なコミュニケーションを目指すグローバル化の思想はどうしてかえってこの異質な意見を排除するナショナリズムを発生させるのか。⇒ これは重要な問題です。一つは「グローバル化」には多様性を認める主張もありますが、本質はどうなのか。「多元文化主義」は、別の先生がおっしゃったように、西洋中心主義的な眼差しがあって、真に異質性と向き合っていないという批判もできます。グローバル化が、ある特定の眼差しを潜ませ、地球を制覇しようとすると、世界各国の為政者は、自国の秩序を安定化させるために、必然的にナショナリズムを強化させます。日本や中国のナショナリズムの昂揚もこれと関係があるでしょう。また資本は(安い労働力を使い、高い税金を逃れるため)とっくに国境を超えて「多国籍化」していますから、人々が国境を超えて連帯し、資本に対して生活権を主張するなど異議申し立てをしないよう、国境内部に閉じ込めておくことは、資本(具体的な人格ではありません)にとっても利益になることで、ナショナリズムはそれにとっても好都合なのです。

2−3 ナショナリズムとは全部悪いですか。[……]今、多くの学者がナショナリズムを批判していますが、ナショナリズムのすぐれたところにも目をむけなければならないと私は思います。⇒ 他の先生の講演でも議論になりましたが、帝国主義に反対する反植民地的なナショナリズム(これを日本では「抵抗のナショナリズム」といっています)には、一定の歴史的役割があったと考えます。それでも、反帝国主義に一致団結するため、指導部を批判する者を弾圧した事実は、中国共産党にも国民党にもありました。また、自分が属する社会の弱点を改革するとき、国家を単位に考える発想(国民性の改革)もあり、それはそれで歴史的意味はあったかもしれません。しかし現在のナショナリズムは、内部の統治を正当化するため、意見の違う者を排除して国境内を均質化しようとします。また外部に対抗するため、自分を何度も確認するようなナショナルアイデンティティを最大のものにして、本当の意味で「他者」と出会うのを阻害する役割を果たしています。内部の均質化は、必ず踏絵を作って「異質な者」を作り出し、差別する(たとえば中国では台湾問題)構造をもつので、本当に均質化はできません。つまりナショナリズムは、健全か狭隘かを問わず、本質的に一人ひとりにとって利益のないものだと私は思います。現在日本や中国で、なぜナショナリズムが強調されているのか、は2−2をご覧ください。

 授業のなかでは、個のアイデンティティの多様性と流動性も語っているので、そうすると、国民国家の戦争責任は問えなくなるのか、という疑問も出てくる。むろん、これも自分が、国民国家に帰属を同定してしまって、その思考から抜け出せないからだ。
2−4 何らかのことにぶつかって、責任を負う時、主体のアイデンティティはどこに置くべきか。日本では戦争責任に対して、このような重層的な主体性を氾用すると、つまり当時の日本の国民として戦争に身を投じたのは尊敬にあたることになる。これは一種の無責任に導くアイデンティティの認定だと思っている。⇒ 個人に対して、戦争にかかわっていない人に戦争責任を問うことはできません。文革で殺された遺族が、殺した側の子孫に対して、責任を問うことができないのと同じです。あるいは、中越戦争(私はこれは、ベトナムの領土内で行われたので、中国の侵略戦争だと判断しています)で、ベトナム人が、この戦争に実際に加担していない中国人の責任を問うことができないことと同じです。ただし、私の場合、日本社会を構成する者というレベルのアイデンティティはあるので、日本がアジアに対する戦争責任について、誠実に対応するよう発言する責任はあると考えます。アイデンティティの多様さが、日本の戦争責任を含めて、無責任になるという考えは短絡的で同意できません。

続く授業では、姜尚中氏の「在日」体験から、ナショナリズムと差別の問題を取り上げ、その克服について考えた。予期はしていたが、従来からの思考は頑なで、なかなか簡単には攻略できない。

3−1 ナショナリズムは必要で、今の段階で克服しにくいではないかと思う。グローバル化の大環境を背景としたナショナリズムについて、先生はどう考えているか聞かせて頂けませんか。⇔ ナショナリズムが克服するのが厄介なのはわかりますが、必要だとは思いません。少なくとも、いまの世界の人々一人ひとりにとって、生きにくくしているものです。互いを同じ価値にしようとし、内部外部の「他者」を排除しようとしているのですから。グローバル化は、世界の人々を共同体にし、平等にするものではありません。その意味で、この両者は手を携えて、差別的な社会を地球上に作りつつあるのです。それを進ませないためにも、少なくとも意識の上では、ナショナリズムを相対化し、そこから醒めた視線を常にもつようにすべきでしょう。

3−2  [中国の場合は]少数民族への好奇心、あるいは憧れすら持っていまです。けっして漢民族としての自慢ではありません。そういえば、日本人は寛容が足りないだけではなくて、好奇心の少ない民族ですね。⇒ 日本人論が出てきましたが、こういう結論は簡単に出さないこと。中国人はこうこうだ、というのと同じく、怪しい議論です。ただ北京にいて比較すると、日本は閉鎖的な社会だなという実感は私にはあります。少数民族と好奇心の問題も、実はそんなに簡単ではありません。「好奇心」というのは、権力や上下関係と本当に無縁なのかどうか。好奇心の対象というのは、つねに「見られる」側にいる、つまり平等に社会を構成する一員とは考えられていないものではないですか。

もっとも最後のほうでは、だいぶ動揺が感じられるコメントや理解を示してくれるコメントも、少数ではあるが出てきた。これはもしかして「洗脳」かも。そうだとしてどの程度「洗脳」できたのだろうか。  

4−1 「史の会」の成立と崩壊から、日本社会に生きている人たちのアイデンティティが窺えますが、なんだか不安な気持ちが湧きました。というのは、その若い人たちが抱えている不安に私の影がひそんでいますから。でも今までそんなことを意識していなかったです。実は、その普通性を求めても、根本的に問題を解決することができないですね。これから自分自身の問題を反省する必要があると思います。⇒ このテーマにご自分の問題を重ねて考えることは重要な発見だと思います。論文を書いた、上野さんもまた、そういう「影」を自分に感じたから、このテーマに接近できたし、聞き取りがうまくいったのでしょう。そういう自分から出発して、修論のテーマが見つけ出せるといいと思います。ただ、自分とは何かにこだわると、却って出口が見えなくなってしまうので、注意してください。

4−2 人間はどうしても「安心できる場」或は何かに混同し、同一化し、まざりあって前に進むことを望んでいるのではないかと思います。『<癒し>のナショナリズム』にも出てきたように「私捜し」や「アイデンティティの核」を捜すのはそれを反映していると思われます。「ナショナリズムの創出に必要なものは忘却である」と書いてありましたが、<癒し>のナショナリズムがそれを一番反映しているのではないかと思います。辛いきもちや経験を忘れるのに一番いいのは忘却ですよね。そして一つの民族や国家にとって、「忘却」がないとナショナリズムを形成できません。「忘却」しないと。共同のもの、一人一人を統一できるものがなくなるからだと思います。国民全体が何かをいっしょに忘れ、また何かを一緒に強調することによって、「共同の記憶」や「共同の特性」を形成して、ナショナリズムが形成されたのではないかと思います。⇒ このような理解が、何らかの形で、修士論文のテーマと結びつくとよいと思います。

 さて最後に論述式の試験を課したので、受講生はテクストを説明することと、自分の立場との矛盾に悩んだようであった。そして最後に一人が手を挙げてこう質問した。「先生は日本でもこういう授業をやっているんですか」と。ふむ、ちょうど4月から、講義の依頼が来ている。今度は日本の若者を「洗脳」してみることにするか。
(2004年1月7日)

◇各部会研究会報告・予定

西日本部会「現代中国講座」

第8回 9月19日 九州大学六本松キャンパス
     朴春麗(九州大学大学院)「長崎に伝わる明清楽」
第9回 11月21日 九州大学六本松キャンパス
     松岡純子(長崎県立大学)「シンガポールの作家張金燕とその初期作品について」
第10回 12月19日 福岡大学セミナーハウス
     劉登翰(福建社会科学院)「香港文学的身分−関於香港文学的香港性、中国性和世界性問題」
第11回 1月16日 福岡大学セミナーハウス
     劉静「郭沫若と日本のタゴール熱」 
     横地剛「楊逵の魯迅精神」

関西部会春季研究集会(予定)

日時 2月28日(土)
場所 大阪市大文化交流センター(大阪第二ビル内)
問い合わせは関西部会事務局総務担当者へ
E-mail udagawa@kansai-u.ac.jp FAX 06-6339-7721

◇『現代中国』投稿規定の改正について

 すでにニューズレター10号、『現代中国』77号で予告したように、『現代中国』投稿規定等の改訂が03年10月17日の理事会で承認されました。78号に投稿を希望している人は、必ずこの投稿規定・原稿執筆要領に従ってください。
 主な改定は次の通りです。
1.論文は枚数を30〜50枚(400字)、研究ノートは30枚以内とし、両者を区別した。
2.投稿時に原稿ファイル、800字程度の内容要旨提出を義務づけた。
3.投稿は未発表の日本語によるものであることを明記した。
4.締切を1月31日当日消印有効とした。
5.審査期間を約2ヶ月とした。
6.刊行を8月中とした。
*原稿執筆要領は、投稿時のファイル提出関連[1.一般事項(2)]以外は改訂はありません。

◆投稿規定  2003年10月17日改訂

 日本現代中国学会は、研究年報『現代中国』を毎年1回発行します。『現代中国』は会員各位からの自由な投稿原稿を受け付け、編集委員会による審査を経て、論文および研究ノートとして掲載します。

1.自由投稿原稿
 会員各位の自由投稿を受け付けます。枚数は、論文は30〜50枚(400字)、研究ノートは30枚以内とします。論文、研究ノートの別を明記してください。原稿は未発表の日本語によるものとします。ただし、口頭で発表しそれを初めて文章化したものは未発表とみなします。編集委員会は、本学会員のなかから複数の査読者に査読を依頼し、査読者の意見にもとづいて掲載の可否を決定します。

2.特集原稿
 当該年度の大会報告(共通論題)および記念講演をベースにした原稿を、特集原稿として掲載します。査読は行いません。枚数は50枚(400字)以内とします。

3.締め切り日と刊行予定日
 自由投稿原稿の受け付け締め切り日を、毎年1月31日(当日消印有効)とします。原稿のコピーおよび800字程度の内容要旨各3部を提出してください。必ず書留または簡易書留郵便にしてください。原稿ファイルもフロッピー、電子メールなど電子媒体で提出してください。電子メールで送付の場合はタイトルに【『現代中国』投稿原稿】と明記してください。締め切り後約2ヵ月をめどに審査結果を投稿者にお知らせします。原稿、フロッピーなどはお返ししません。
 特集原稿の受け付け締め切り日を、3月31日(当日消印有効)とします。原稿のコピー1部と原稿ファイルを提出してください。
 刊行は、8月中を予定しています。

4.提出宛先(77、78号適用)
572-8508 大阪府寝屋川市池田中町17-8 摂南大学国際言語文化学部瀬戸宏研究室気付、日本現代中国学会『現代中国』編集委員会  電話 072-839-9234 電子メール:ir8h-st@asahi-net.or.jp

5.改訂手続き
 投稿規定および原稿執筆要領の改訂は、編集委員会が原案を作成し理事会の承認を得るものとします。

◆原稿執筆要領     2003年10月17日改訂

1.一般事項
(1)原稿は日本語横書きとし、A4版、40字×30行/1頁のワープロ印刷での提出を原則とする。自由投稿原稿は原稿コピー3部、特集原稿は原稿1部を提出すること。
(2)特集原稿、自由投稿論文とも投稿時に、原稿のMS−DOSテキストファイル(ワード、一太郎などワープロソフトをお使いの場合は「テキスト保存」したもの)を、フロッピー、電子メールなど電子媒体で提出する。
(3)原稿には投稿者氏名のローマ字表記及び原稿表題の英訳を付記すること。
(4)本文の章節立ては、まず章をローマ数字(I、U、V……)で、その下の節を算用数字(1.、2.、3.……)、その下の項をカッコ付き数字(1)、(2)……でそれぞれ区分し、見出しをつける。節以下の小区分はなくてもよい。また、最初に「はじめに」、末尾に「おわりに」「まとめ」等をつけてもよい(これらにはローマ数字はつけない)。
(5)漢字は日本の常用漢字を原則とする。ただし、固有名詞など特に必要な時はこの限りでない。
(6)本文の句読点は、全角の「、」「。」とする。単位や数値、注記の欧文ではこの限りでない。
(7)文中で引用する場合は「 」を用いるのを原則とする。引用文ではカッコを閉じた後に句読点を付し、カツコ内の文末には付けない。
例:「……であった」。 「……でなければならない」と述べた。 
特に長文の引用は「 」を付けず、前後を1行ずつあけ、引用部全体を2字下げて記す。
引用文中に注を挿入する場合は〔 〕を用いる。
(8)本文中の数字は、固有名詞や熟語など漢字表記がふつうのものを除き、算用数字を用いる。
例:20世紀、第2に……、五・四運動、三角債、一面的
数量は4桁毎に億、万などの読みを入れ、小数点はピリオドを用いる。パーセント、キログラムなどの単位は全角記号で表し、通貨単位は文字で表記する。数値は原則として半角を用いる。
  例:4000万、5000人、57.4%、1000万元、2000万米ドル
分数は1/2とせず、2分の1と記す。
2.注について
(1)注記文は本文の最後にまとめておく。
(2)注番号は太カッコ【 】で囲った数字とする。注番号との混乱を避けるため、他の箇所では【 】は使用しない。
   例:……であった【1】。
(3)引用文献の表記は、以下のようにする。〔 〕内は省略可。
単行本:著者名『書名』〔発行地〕、出版社、発行年(西暦)、引用頁。
雑誌論文:執筆者名「論文題目」『雑誌名』巻号、発行年月、引用頁。
論文集論文:執筆者名「論文題目」(編著者名『書名』発行地、出版社、発行年)引用頁。 新聞記事:〔執筆者名「記事・論説名」〕『新聞名』発行年月日、〔引用頁〕。
未公刊文書:「資料名」年月日、所蔵機関、文書名、整理番号、引用巻・頁。
インタビユー:例 広東省東莞市政府財政局××氏談(年月日)。
欧文文献の表記は、各言語での標準的引用形式に従う。
引用頁の表記は、10頁、10-(ハイフン)15頁などとし、p.またはpp.は用いない。ただし欧文の引用頁の表記はp.またはpp.を用いる。
(4)ホームページの引用は、適当な文献資料が利用できないか、または電子テキスト利用の利便性が特に高い場合に限る。URLの全称とアクセス年月日を付すこと。
(5)中国語・英語以外の外国語文献を注する場合は、書名に訳を付すこと。また、印刷の都合で、編集委員会よりローマン・アルファベットや日本語訳で代替することを依頼することもあり得る。
3.図表について
(1)図表(グラフを含む)は原則として新組みするため、原稿のほかに、原稿を作成する際のファイルを提出すること。MS-DOSテキスト以外のファイルの場合は編集委員会に相談のこと。
(2)図表のなかの数値表記は、3桁ごとの区切りのコンマを入れる。
例 1,234,000
(3)注、出所の表記は 注)……、注1)……、注2)……、出所)……とする。
4.その他の注意
(1)長音の表記はマイナス記号、またはダッシュ記号で代用しないこと。
(2)表外字は■を入力し、原稿に書き入れる。1字空けでの入力はしないこと。
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◇広報委員会の設置について

 すでに総会で報告されたが、このたび広報委員会が設置されることとなった。その構成メンバーは次の通り。
西野由希子(ホームページ担当)、新谷秀明(ニューズレター担当)、砂山幸雄、高見沢磨、宇田川幸則(以上法律担当)、伊藤徳也(事務局)

◇事務局より

1)事務局体制関係:中研との協議内容について
昨年10月31日中研にて、丸山松幸理事長と協議の結果、今年度については、大会で提案した内容から会計業務を差し引いた業務を委託することとなりました。委託料については、来年度以降の委託業務内容とともに、今年9月に再度協議することとなりました。
2)広報関係:HP管理の委譲について
HP担当理事の交代が遅れていることをお詫びします。年度内に完全に新HPに移行できるよう作業中です。
3)HPのURLと事務局メールアドレスの変更について
広報委員会立ち上げに伴って、HPのURLと学会事務局のメールアドレスを変更いたします。URLとメールアドレスの書き換えをお願いいたします。
 新しいHPのURLは http://wwwsoc.nii.ac.jp/jamcs/
新しい事務局メールアドレスは genchujp@yahoo.co.jp です。

[編集後記]

あけましておめでとうございます。諸々の理由で予定よりも少し遅れてしまいましたが、新年号をお届けします。
昨年10月に大阪市立大学で開かれた全国学術大会は、天候にも恵まれ、盛況のうちに幕を閉じました。学会運営に当たられた担当校の先生方、院生の方々、役員諸氏、ほんとうにご苦労さまでした。次号の『現代中国』をはじめ、各所にこのたびの学会の成果が反映されることが期待されます。
今回のニューズレターは連絡事項中心の簡単なものになるかと思っていたところ、北京在住の代田理事より、ナショナリズムをめぐる中国での授業をふまえたたいへん興味深い文章をいただきました。昨年は日中間の感情が国交回復以来最悪になった一年だと言われていますが、この報告は国家や個人をめぐる日本人と中国人の間の議論が噛み合わない根本的な原因の一端を伝えてくれているように思われます。巻頭言としては長文ではありましたが、あえてそのまま掲載させていただきました。
(編集担当 新谷秀明)