日本現代中国学会関西部会 ニューズレター
  NO.3  2001.4.1

☆巻頭言
 中国の新5カ年計画をめぐって

            内藤 昭 (大阪市立大学名誉教授)

 中国の第9期全国人民代表大会第4回会議(2001年3月5日−15日)は「第10次国民経済・社会発展5カ年計画(2001−2005年)要綱」と朱鎔基首相の「同要綱に関する報告」を承認した。それによれば、中国の第9次5カ年計画期(1996−2000年)におけるGDPの年平均成長率は8.3 %であったが、新5カ年計画期にはその目標を年平均7%前後に引き下げた。これは93年以来の経済成長率の低落傾向に沿った目標の設定といえよう。中国経済はすでに欠乏型経済の売り手市場から過剰型経済の買い手市場に移行し、需要不足が慢性化する傾向にある。そのうえ、対外的な経済環境もWTO加盟などによって国際競争が一層激しくなる可能性があり、過去の高度成長への復帰はけっして容易ではない。新5カ年計画期は、中国の高度経済成長期から安定経済成長期への過渡期として位置付けられることが予測される。
 現在、中国経済にはいくつかの軽視しえない問題が存在しており、それを解決するための政策も提起された。なかでも農業の後進性脱却は、新5カ年計画の最優先任務と位置付けられている。これは農業・農村と工業・都市との経済格差の拡大傾向は、総人口の7割を占める農民の相対的な貧困化を深め、社会の安定に深刻な影響を与える可能性を秘めているからであろう。そのうえWTO加盟による外圧の衝撃を緩和する必要もあり、農業経営を産業化し、さらに大規模経営や機械化を推進して、労働生産性を高める政策を提起している。ただ、欧米のような農業の大規模経営や機械化が拡大することになれば、農家単位の請負経営制に一定の影響を及ぼす可能性は十分考えられる。
 産業構造が不合理で、国民経済全体の質が劣っていることも問題になっている。中国経済の総量はすでに世界第7位の水準にまで達しているが、しかし産業構造の基軸は依然として労働集約型産業であり、先進国のような近代化を実現し、技術集約型産業が基軸となっている国民経済とは質の面ではるかに異なっている。したがって、経済構造調整の主な目標として、産業構造を高度化し、国際競争力を強化することを挙げている。さらに、段階発展論などによって拡大した地域経済の不均等発展についても、西部大開発戦略の推進などによってその是正がもくろまれている。
 社会主義市場経済体制が不完全で、生産力の発展を阻害する体制的要因になっていることも指摘された。これは社会主義的計画経済体制の諸要素が、生産力発展の阻害要因として残存していることを示唆している。社会主義市場経済体制を整備するために、引き続き国有企業の改革を深化させ、私営企業や個人経営企業の発展を奨励することも明らかにされた。この政策の進展は、社会主義市場経済体制、つまり中国型の社会主義・資本主義混合経済体制を資本主義経済体制の方向へ一段と傾斜させる可能性がある。

☆2001年春季研究集会:3月10日10:30〜17:30 大阪市立大学文化交流センター
 本年の春季研究集会は「21世紀を拓く現代中国研究」と題して日本のこれからの中国研究を担う若手研究者の生気に満ちた報告がずらりと並び、会場は若手らしい新鮮かつ大胆な新しい研究領域を開拓しようとする意欲と活気がみなぎるものとなりました。また、中国・南京大学から張憲文教授をお迎えして特別講演をいただき、中国における中華民国史研究の現状・動向を知ることができたことも大きな収穫でした。以下に各報告要旨と張憲文教授の中文要綱を収録しましたので、ご参照ください。
  なお、当日の参加者は70名をこえ、集会後、張憲文教授を囲んだ懇親会にも30名以上が参加し交流を深めました。

◇政治経済分科会・午前  司会:安井三吉(神戸大学)

現代中国における人材市場の形成        日野みどり(大阪外国語大学大学院)
 現代中国の人材市場とは、高学歴の専門職・管理職を対象とした職業仲介の場で、80年代以来、政府当局が建設を推進している。ジョブ・マッチングの政策およびその実施のために設けられた具体的な場所としての人材市場の形成について報告した。
 人材市場は、建国以来の「統包統配」制度から市場適合的な人材活用制度への転換を目指す中で形成された。その過程は、政府人事部門が所轄する幹部人事管理から発展し、改革・開放から市場経済体制へと続く国家の方針に沿って、全体として人事部門の主管・主導で進められたのである。初期(1978〜91)には既存の幹部人事制度の枠内での人材流動政策が実施され、人材市場も誕生したが、直接の成果はあがらなかった。社会主義市場経済体制が打ち出された1992年を機に、人材市場の建設と発展が人事部門の重点政策となる。96年1月29日に『人材市場管理暫行規定』が公布され、各級政府人事部門を人材市場の監督官庁に定めた。人事部は人材市場の設立にも直接関与し、全国で計16の人材市場を地方政府と共同開設した。
 求人・求職情報を収集提供する職業紹介の施設に過ぎなかった初期の人材市場は、90年代には機能面・組織面で進化し、人材流動服務機構と総称される。うち、人事部門直営のものは個人档案の保管を軸とする人事代理権を持つなど、権能においてその他の設立主体のものに優越する構造が作られた。これらを含めた総体としての人材市場は全国にその数を増やし、インターネット化も急である。社会に浸透し、高学歴者の間での知名度と利用度は高い。
 このように形成された中国の人材市場は、もともと国家幹部に準ずる存在と見なされながら今や「幹部」概念の枠内に収まらない「人材」という階層の姿を映すが、それは現代中国社会の変動状況そのものの反映でもある。「幹部vs.工人」という従来の二元論を超えた新たな研究パラダイム追求の必要を感じる所以である。

国民政府による対日戦犯裁判についての一考察     和田英穂(愛知大学大学院)
 本報告ではほとんど解明の進んでいないいわゆる対日BC級戦犯裁判、特に国民政府による戦犯裁判を取り上げ、考察を行った。
 戦前から開始されていた日本人の戦争犯罪に対する国民政府による組織的な調査により、戦後1946年4月から日本の戦争犯罪を裁く軍事法廷が開かれた。法廷は徹底的に、そして公平に行われようとしていたが、中国一国による裁きへのこだわりから通訳、弁護士などのスタッフ不足に陥り、さらに内戦の危機或いは冷戦構造形成の真っ只中に置かれていたために、法廷への政治的意図が前面に出るようになり、不徹底な裁きとなってしまったのである。
 しかし一方で、法廷は蒋介石の対日処理方針である「以徳報怨」により、日本人への報復裁判という最悪な状況を避けることができ、さらには、組織的に行われた調査により公平に裁かれた判決も存在していた。
 判決は、住民の告訴を重要視したこと、或いは政治的意図により上層部への判決が甘くなる傾向が強く、下士官及び兵等の直接怨みを受けやすかった階級(特に憲兵)へ厳しい判決が下されていた。
 そして、裁判の法的根拠となった裁判条例は国際軍事裁判所条例等を基に制定されたが、中国独自の規定も含まれ、戦争犯罪の対象も他に比べて拡大しているなどの特徴があった。
 結局、裁判は内戦で国民政府側が不利な状況になるとともに終結に向かい、1949年1月には全ての法廷が結審し、同時に内地服役が行われた。そして1952年4月に日華平和条約が調印されると、事実上国民政府は戦犯の管轄権を放棄し、発効と同時に日本政府により戦犯は釈放された。このことが国民政府による戦犯裁判の意義を著しく低下させているのである。
 対日BC級戦犯裁判の研究は、戦犯裁判の全体像を解明することだけではなく、日本の戦争犯罪の解明、更にはいわゆる戦後補償問題へ寄与することにつながることが期待される。依然制限が強く明らかにできていない部分は少なくないが、引き続き研究を続けていきたい。

◇政治経済分科会・午後  司会:佐々木信彰(大阪市立大学)

中国の省内政府間財政関係の展開−広東財政を中心に     内藤二郎(神戸商科大学大学院)
 中国の政府間財政関係のこれまでの研究は、ほとんどが中央と省級政府間の議論に留まっていた。本稿では広東省を事例として、省以下の政府間財政関係を中心に分析を試みた。
 はじめに、広東省を事例に地方税収の構造を検証した。ここからは(1)地方税収が財政収入の7割以上を占めており、その4割以上が営業税である。即ち所得税の割合が極めて低い、(2)広州と深土川の二つの市がGDPの約35%、地方税収の約56%を占めるなど地域間の格差が非常に大きい、(3)各級地方政府間の税源配分が事務分担に基づいていないため非効率が生じている、などの点が明らかとなった。
 次に、地方における分税制の導入については、94年改革の大きな成果ではあるが、次のような問題点が指摘される。第一に下級政府の脆弱な財政基盤である。分税制により地方政府の独立した税源が少なくなった上、下級政府にいくに従って課税ベースが限定される。しかも事務分担が不明確であるため、特に県、郷鎮財政が厳しい状況に直面している。その一方で収入確保のインセンティブを高める名目で上級政府からノルマが課され、それを達成するために予算外資金や様々な制度外資金の拡大を引き起こしている。第二に制度内容および運用のばらつきである。財政移転システムについては各省が主体となった制度となっているし、分税制ついても省内では明確な統一的規定がないため、各地域で中央−省級間の分税制を参考に独自の方法により行われているのが現状である。また、広東省内の経済特区や一部の富裕な県級政府では直接中央と分税制を実施している地域があり、制度的な基準が不明確である。
 94年の分税制の実行は、改革の方向として一定の評価はできるが、あくまでも集権システム上の権限分散的な性格が強いため、十分に機能していないのが現状である。各級政府の役割、事務配分と責任分担を明確にし、ルールに基づいた制度の構築と運営が急がれる。そして、ハードな予算制約のもとに地方政府の権限を保障した財政システムの構築を目指すことが必要であり、財政連邦制をも視野に入れた改革が急務である。

中国における多国籍企業の直接投資効果-日米比較をふまえたマクロ的効果を中心に-
                          尤 艶輝(追手門大学大学院)
 中国は1978年12月、第11期共産党中央委員会第3回全体会議(三中全会)で経済改革と対外開放を両輪とする新たな政策を打ち出した。翌79年には初の外資誘致関連法として「合弁企業法」を公布し、外資導入の第一歩が踏み出された。その後、改革・開放政策の拡張につれ、外資系の企業および合弁企業の数は急速に増え、直接投資の規模も次第に拡大された。
 多国籍企業の中国進出は中国の経済発展に大きな影響を与え、とくに直接投資の効果は顕著であり、今日の中国の経済建設に欠かせない助力となっている。
 中国の経済発展にとって多国籍企業の直接投資の受け入れを必要とすることは、誰も疑わないであろうが、しかし、多国籍企業の進出によって生じうるさまざまな問題も十分に認識しなければならない。そこで本稿において中国における多国籍企業の投資状況を探り、投資側と投資受入側の中国との利害関係や問題の所在を考察し、外国投資に対し、如何に認識して適切な態度、政策、措置をとるべきかを検討してみた。
 また中国における多国籍企業の直接投資効果について、実証分析と積極的提言をまじえて検討してみた。グローバルな経営活動の先駆であるアメリカ企業と、後れではあるが、規模の大きさはまったく遜色していない日本企業との対中国直接投資の効果について比較検討してみた。日・米企業進出の主要分野は大きく異なるが、他の外国投資と合わせ、中国の経済成長、雇用創出、資本形成、貿易拡大などに積極的補完的な貢献をはたしている。

中国における開放政策の展開過程と実績に関する研究    楊 潔(関西大学大学院)
 今回は修士論文「中国における開放政策の展開過程と実績に関する研究」の要約を報告した。論文要旨は下記のとおりである。
 中国は1970年代末以降の改革開放政策の下で,比較優位論に立脚した貿易の積極的な拡大及び外資の誘致・利用を特徴とする対外開放は大きな成果をあげた。1998年の貿易輸出が世界の第9位,外資導入が同第3位となり,経済の国際化が注目されている。
 経済の国際化は,国内経済の高度成長を支えた側面もあった。たとえば,国内総生産に占める輸出入比率は,1978年の9.8%から97年の36.1%に, 国内固定資本投資に占める外資比率は同期間中3%台から10.3%へと急上昇した。また,外資導入により,情報パッケージも同時に導入された場合が少なくない。
 中国経済がここまで国際化している背景には,国内外の要因はもちろんであるが,特に貿易と外資の政策における大きな展開があった。本研究は,改革開放以来20年間において,貿易と外資に関する制度や政策はどのように変化してきたのか,その変化をもたらした背景に何があったのか,制度や政策の改革が開放の実態にどう影響してきたのかなどについて,制度論的分析とデータに基づく実証を行い,体系的に解明することを目的とするものであった。
 今回の報告にあたって,古澤賢治先生や内藤昭先生および他の先生方々から貴重なご指摘を戴き,私の今後の研究に対してよい指針を与えてくださいましたこと,ここで感謝したいと存じます。

◇歴史文学分科会・午前  司会:岡田英樹(立命館大学)

北京の顧城−その周辺から文学形成をさぐる   島 由子(大阪外国語大学大学院)
 本報告では家族で下放した農村より1974年に北京に帰還した顧城(1956〜93)の詩に生じた変化をその初期活動をさぐることにより、考察してみた。
 帰京した顧城は就職など社会参加をはじめ、しだいに創作から離れていくが、そのような顧城を再び創作へと向かわせたのが天安門事件(四・五運動)であった。四人組の失脚、文化大革命の終結という時代の転換期にあって顧城もペンを執り、作品は社会性を帯び始める。
 1978年末、西城区文化館を訪れた顧城はやがて文化館の詩歌創作組に参加することになる。文化館の機関紙『蒲公英』第三期は顧城にとって初めての作品発表の場であった。現存する『蒲公英』には諷刺詩や寓話の掲載、歴史上の賢君や賢臣の紹介記事などが掲載され、時代の転換期にあった当時の人々の政治への不満と期待が読み取れる。また、掲載された詩論や文学論より、当時の詩歌創作組のメンバー達が時代の転換期にあって文学のあり方を模索しようとした姿が伺える。
 顧城はまた地下文芸雑誌『今天』の同人としてその活動に参加しはじめる。そこには文化大革命の間、民間に流出した“黄皮書(内部読物)”により、急成長をとげた詩人達がいた。『蒲公英』主編が顧城の詩を読んだときに驚きを隠すことができなかったと語る一方で、『今天』の編集者はあまり満足しなかったと語る。その反応の違いの背景に読書環境の差(不平等)があったのではないかと考えられる。
 詩友達との出会いに触発された顧城は理論学習を始め、その過程で自らの内面の感覚を象徴の技法により表現することを再確認した。それは社会性が強くなることにより、詩的言語が単純化した顧城の作品に大きな飛躍をもたらしたと言える。

丁西林初期作品の再認識             勝呂崇史(大阪市立大学大学院)
 今回、現代中国学会関西部会において、光栄にも発表の機会をいただきありがとうございました。しかしながら、発表の方は欲張りすぎて要領を得ない発表となり、お聞きいただいた皆様も非常にわかりにくかったことと思います。これをよい経験として、以後励んで参りたいと考えております。では、以下に報告の要旨を簡単にまとめます。
 丁西林は現代中国演劇史上それほど重要視されていない人物でありますが、彼の代表作は『茶館』や『雷雨』・『日出』といった作品と同様に今日もなお上演の機会を得ており、決して無視することはできない作家であります。今日、丁西林の代表作としては多く『一只馬蜂』・『圧迫』・『三塊銭国幣』の三作品が挙げられ、これらの作品は一括して「ユーモア喜劇」、或いはこれらすべてが「独幕劇(一幕劇)」であることから「独幕ユーモア喜劇」と評され、この「ユーモア喜劇」という評価が、丁西林の評価にもつながっています。さらに、これらの作品の内容から「反封建主義」思想を表現したものとして評価している研究もあります。
 ところで、丁西林は本来物理学者であり、劇作家としての創作活動は非常に独特で、以下の三つの時期に分けることができます。
  1)第一期:1923年〜1930年(五四期)
    「独幕劇」;『一只馬蜂』、『親愛的丈夫』、『酒後』、『圧迫』、『瞎了一只眼』、『北京的空気』。
  2)第二期:1939年〜1941年(抗日期)
    「独幕劇」;『三塊国幣』。「多幕劇」;四幕劇二本。
  3)第三期:1951年〜1974年(建国後)
    「独幕劇」;『干杯』。「多幕話劇」;四本。「舞劇」;三本。
 この三区分を見ると、丁西林の創作「独幕劇」が第一期に集中していることがわかります。この第一期は1920年代であり、中国演劇界では話劇作品が作られ始めた頃です。この時期、「独幕劇」の創作はそれほど珍しいことではなく、多くの作家が「独幕劇」を創作しているのだが、丁西林のように「独幕劇」ばかりを創作したということは特異な例と言えるでしょう。今回の発表では、この「独幕劇」ばかりの第一期の作品に注目し、従来の「ユーモア喜劇」という観点から離れてもう一度分析することで、丁西林の「独幕劇」の意義を考え直そうとするものであります。
 まず、第一期の六作品それぞれの共通点をいくつか分析していくと、構造上の話劇的特徴や、セリフ展開における外国風喜劇的特徴や、話劇的特徴など、当時の他の作家の作品にも見ることのできる特徴が確認できるのと同時に、丁西林独自の特徴として、舞台における「現実性」、「自然さ」の追求という点が挙げられます。
 それでは、この共通の特徴が、第一期のそれぞれの作品においてどのように展開されているのかをを見ていくと、第一期という時期に丁西林が「独幕劇」創作を通じて、単に話劇や喜劇の創作ではなく、舞台芸術として、舞台上での人間性の表現や、その「現実性」を追求したことが見えてきます。
 発表では、こうしたことの細かな理由付けが全く説明できずに終わってしまいました。また、使用するキーワードの曖昧さなども指摘され、今後こうした点を改善して、またどこかで発表の機会をいただけたらと思っております。

◇歴史文学分科会・午後  司会:谷垣真理子(東京大学)

黒龍江省大躍進期前後の女性労働力と家事の社会化   横山政子(大阪大学大学院)
 現代中国における政治動向が伝統的家族制度に与えた影響、及び逆に家族制度が政策をいかに規定したかを考察することにより、中国の家族の特質を理解することが大きな目的です。政策の理念と、地域の生活慣習や農民の観念との相剋を扱っています。
 本発表で具体的考察対象に設定したのは、時期としては史料的制約から研究が手薄な大躍進期前後、地域としては伝統的に女性が戸外の農業労働にかかわってこなかったとされる黒龍江省です。家族の生産労働・家事労働を取り上げ、国家の動員システム、つまり人的資源の投入政策と、現地農民の対応と選択という視点で、地域研究の一事例として提出しました。史料としては、口述史料、木當案史料、そして近年相次いで刊行されている新地方志を用いました。
 当該省では本時期においてもより多くの労働力を動員することは困難でありました。とりわけ女性労働力の動員率が低いことから、「家事の社会化」との関連に注目しました。大躍進のシンボルといわれる公共食堂ですが、1960年には、殆どの公共食堂は、その名から推測するような全人民対象の食堂ではないことがわかりました。集団労働の参加者を対象に、自宅へ戻らずに集団で食事をとることによって、集団労働を規律的能率的に組織する役目を果たすことを目的としており、いわゆる「家事の社会化」とは主旨を違えたものであったということが確認できました。国家の総動員の理念が、地域の実情にそって、変容せざるをえなかったことを示しています。そして民間の伝統的労働慣習が、公的労働システムに組み入れられた、ということもできましょう。現在、もうひとつの大躍進のシンボル、託児所についても分析をすすめています。
 今後:省レベルの政策とのつきあわせや、特定県・郷での木當案史料の収集、ひいては現地調査を行うことが目標であります。

1910−20年代日本のアジア向け輸出と神戸華僑−マッチとゴム靴を事例として−
                          溝口 歩(神戸大学大学院)
 1870年代に製造がはじまったマッチは、80年代になると中国、東南アジアを主な市場とする日本の重要な輸出向け工業製品の一つとなった。そして、この輸出を担っていたのが神戸華僑であったことは従来の研究で述べられてきたことである。また、1920年代になるとスウェーデン製マッチの低廉化と中国製マッチの勃興によって、日本のマッチ製造の中心であった神戸の工場が衰退するが、これらの工場の多くが工場規模や労働力、原料を同じくするゴム靴工場に転換していった。そして、マッチと同様に中国、東南アジアを主な市場としたのである。日本製ゴム靴は、1928年に初めて貿易統計に掲載された時点で世界第3位の輸出額であった。しかしこれら二つの製品は、その輸出がどのように行われていたのかについて本格的に論じる研究が少ない。これは、当時の日本の輸出品の中心であった繊維製品と比較して、圧倒的に規模が小さいこと、輸出品としての寿命が短かったことなどが理由としてあげられる。
 しかし、神戸華僑の側から日本製マッチとゴム靴のアジア向け輸出を検討すると、1890年代にはマッチ輸出の約9割を神戸華僑が担当し、ゴム靴はマッチ輸出が不振になった際にその市場を受け継いでいった。さらに、神戸のマッチ工場に衰退の色が見えると、神戸華僑の中には中国のマッチ工場に投資するものや、帰国して自らマッチ工場を経営するものが現れた。また、日本人と合弁して中国に工場を設立するものもいた。このような現象は、ゴム靴が世界恐慌や日本製品ボイコットの影響を受けて不振に陥ったときにも見られたことであった。中国製のマッチとゴム靴は日本と市場を同じくし、低廉な価格によって日本製品と競合していた。神戸華僑は日本製マッチとゴム靴のアジア向け輸出を担っていただけではなく、中国の工場への投資あるいは直接経営によって中国の工業化を促進する生産者の側面を持ち合わせていた。

河南省の地方「自治」と国民政府−地方制度の統一と地域社会−
                       坂井田夕起子(広島大学大学院)
 南京に成立した国民政府が引き継いだ課題は、国内的には諸地域を制度的に統合し全国的な地方制度を構築することであった。清末以来の各種多様な地方制度と、「北伐」後も温存された軍事的実力者たちの権力基盤に対し、国民政府は行政・軍政の両権限の中央化をはかり制度的統一を試みた。
 河南省を基盤とした馮玉祥は蒋介石に次ぐ兵力を有し、地方分権(「省自治」)の理念に基づいた省政改革を実施していたが、中央政府との対立と軍事的敗北によって諸改革は中止され、各機関は閉鎖となり人材は四散せざるを得なかった。梁漱溟らの郷村建設運動も支援者を失い、ある者は他省に支援者を求め、他の者は省内各地に活動の場を求めていった。後者の中でも辺境地域で活動を再開した者らは、政府権力の及ばない中で、より自立的自衛的な「自治」を実施し、省政府との対立過程において近隣地域に影響を与え、地主や区長の追放といった急進的な改革すら試みるようになっていった。
 一方、再編後の河南省政府は統一的な制度に基づく「自治」実現を目指したが、省南部における「剿匪」戦争の勃発によって「自治」停止を命じられた。「自治」から保甲への転換を余儀なくされたことにより、河南省では県以下の統一的行政組織は整備されたにもかかわらず、地方政府による地域社会把握は十分とはいえなかった。県や地域社会による「自治」要求はその後も認められず、行政と地域社会を連携するチャネルになることができなかったのである。
 30年代半ば、国民政府は省・県政府の改編と同時に郷村建設運動などの経験を取り入れた改革を試みるが、まもなく始まった抗日戦争により、県政の改革の課題は抗戦体制構築の基礎という新たな位置づけの下で実現が目指されることになる。

【特別講演】−略−
  張憲文(南京大学歴史系)「民国史研究的新視野」(実物の『ニューズレター』
には簡体字の講演原稿をそのまま掲載)


新入会員自己紹介(順不同)
 2001年春に入会された方々の中から寄せられたご挨拶です。

島 由子(大阪外国語大学大学院言語社会研究科博士後期課程:中国現代詩)
 このたび入会させていただきました島由子です。
 今春、関西部会の研究集会で報告する機会に恵まれ、会員の先生方や諸先輩から貴重な御意見、アドバイスをいただき、自分の研究を違った視点で見つめなおすことができました。
 私が研究対象としているのは中国現代詩人・顧城(1956〜93)です。
 学部生のころ偶然某中国書籍専門店で初めて顧城の詩を読み、彼の作品の意味に還元できない、感覚に訴えてくる言葉の美しさに感動し、その感動の理由を探りたくて大学院という進路を選びました。
 顧城の作品は前半の抒情詩から後半の前衛詩へと大きく展開していくのですが、その変化を彼の詩論とあわせてたどることにより、彼にとって詩歌、そして、言葉とは一体どのようなものであるのかを考えていきたいと思っています。そうすることによって、私自身の疑問の答えが出るように思うからです。
 会員の先生、先輩方にはご指導ご鞭撻をたまわりますようお願い申し上げます。

趙国郁(神戸商科大学大学院経済研究科博士後期課程:中国金融)
 この度、入会させていただきました趙国郁と申します。日本へ留学に来る前に、中国の銀行に4年あまり勤めていました。その時には中国の国有銀行の不良債権問題がすでに顕在化し始めましたが、最近数年間にさらに深刻化してきています。
 中国の金融改革は目下急速に展開していますが、他の経済分野の市場化、国際化に比べて若干の遅れをとっているといえます。「撥改貸」を背景とした国有銀行システムはまだ「財政代替」の役目から脱しておらず、国有企業の「ソフト予算制約」を招き、膨大な銀行不良債権を発生させる同時に、資金配分効率の歪み、民間部門活力低下をもたらしました。いかにこの困難から脱却するかについて、国有商業銀行のリストラ、民営化、株式化などさまざまの意見がありました。私は、中国国内の研究をまとめた上で、「中国における銀行システムの改革の分析」と題する修士論文を作成しました。
 直接金融の割合を増やし、金融機関を民営化するのは中国の今後の金融改革の方向だと思いますが、それには情報の公開や法律の整備が非常に重要です。ですから、私はこれから中国の銀行や企業のガバナンス構造を課題として中国の金融現象の研究を続けたいと思います。会員の先生、先輩方には、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。

日野みどり(大阪外国語大学大学院言語社会研究科博士後期課程:現代中国の社会変動)
 現代中国の都市部における高学歴者の就職・転職に関する問題に取り組んでいます。修士論文研究では、内陸各省から広東省珠江デルタに移住して職業生活を送る「外来人材」と地元社会住民の相互関係について、フィールドワークによる調査を行い、言語や生活習慣、文化・社会的価値観の違う中で双方が重ねる日常的接触の実態、自らの社会的資源の意味についての異なる解釈、またそれら異なる解釈の基盤が実はどちらも国家当局のもたらす「改革・開放による経済発展」政策に依拠して成立していることなどを論じました。
 現在は、改革・開放期以来政府主導で全国に設立された求職・求人施設「人材市場」をめぐる事象について研究しています。市場経済を志向する中国社会がその内部に企業間、個人間の激しい競争を生み、また大卒者の就職制度が統一分配から自主的職業選択へと移行した現在、職業を選ぶこと・変えること、従業員を選ぶこと・変えることは、中国社会に生きる人々にとって日常的行為でありながら極めて重要な行為となりました。この求職・求人行為を仲介する場である「人材市場」の形成過程と現状を明らかにし、またこれを窓口に、中国社会の急速な変容の諸相に迫りたいと考えています。
 法規や政策文件など公式文書、新聞・雑誌など活字メディア、テレビ・ラジオなど視聴覚メディア、それにインターネットが発する大量の情報。今日的なテーマに挑む者には、実に多様な同時代的資料が役立ちます。否、実は資料の洪水に溺れそうです。が、そうした情報だけに頼るのではなく、現場に身をおいて実情を見ることも大切だと考えています。かくして、中国の人材市場に紛れ込んでは人波にもまれる怪しい日本人が、現場に出没するわけです。新聞で「人材交流会情報」をチェックしては足繁く通う日々は、まるで就職活動そのもの。研究者の数だけ研究の方法がある、とはいえ・・・・・・。

横山政子(大阪大学大学院文学研究科博士後期課程:人民公社期の農民家族)
 現代中国における政治動向が伝統的家族制度に与えた影響、及び逆に家族制度が政策をいかに規定したかを考察することにより、中国の家族の特質を理解することが研究目的です。中華人民共和国成立以来、激動する政策転換の嵐のなか、人々は生活してきたわけですが、現在なお、公刊された書籍・新聞・雑誌からの情報は限られ、その草の根の実態については、把握されているとは言えません。そこで、新史料の発掘、即ち、聞き取り調査により人々の生の声を集め、また木當案史料を入手して、当時の生活、家族成員個々の役割と意識を復元し、政治動向との関連に注目しつつ、伝統的家族の変容と継承を考察したいと考えています。
 今までの調査対象は、主に帰国した中国残留孤児・婦人、つまり「満洲開拓民」として入り、敗戦後も残留を余儀なくされ、中国社会のなかで家族を形成してきた人々でした。昨年2月に中国残留孤児・婦人及びその2世3世、中国人配偶者の日本での生活実態(日本語習得・進学・就労・異文化適応・アイデンティティ)を報告した『「中国帰国者」の生活世界』(蘭信三編、行路社)を共著で出版しました。いままでマスコミが中心となって論じられてきた中国帰国者問題を、社会科学的研究の対象としてとりあげようとするものです。
  今回の春季集会に参加・発表させて頂きました。学会というものに参加するのは初めてで、始終緊張していました。今後、現代中国の多様な問題を勉強していきたいと思いますで、宜しくお願い申し上げます。

渡辺直土(大阪外国語大学大学院言語社会研究科博士後期課程:現代中国政治)
 大阪外国語大学大学院博士後期課程の渡辺と申します。専攻は現代中国政治です。
 現在中国はWTO加盟を間近に控えており、今強ますます国際社会とのリンケージを強めていくであろうことが確実視される中で、その政治体制がどのような方向へ変容していくのか、民主主義が定着した体制に移行する可能性はどの程度あるのか、といった問題を考察したいと思っています。修士論文では現代中国の村民自治の問題を限り上げ、改革・開放以後、20年あまりを経過した中で、農村社会ではどのような変容が起こったのか、村民自治における中国共産党の影響力はどの程度か、といった問題を主に理論の問題や、実態的分析、制度的分析を通して考察しました。今後は村民自治の問題も視野に入れつつ、現代中国の行政改革の問題、特に政府機構改革の問題について考察したいと考えています。
 1997年の第15回党大会以後、行政改革は国有企業改革、金融制度改革と並んで三大改革として重要な課題とされていますが、国有企業改革と運動して、それに対応する各レベルの政府機構も改革が進んでおり.各部門での改革の成果が新聞報道などで強調されています。その中で実際どの程度人員が削減されているのか、どのような部門で主に削減されているのか、また、中央・省・県レベルなどの行政レベルごとに改革の進め方の違いはあるのか、改革を推進する中での中国共産党の役割はいかなるものか、といった論点を中心に現代中国の行政改革の問題を日本や他の国の行政改革との比較も視野に入れつつ、突き詰めていきたいと考えています。よろしくお願いします。

※以下の3名は現在入会手続中の方々です。

溝口 歩 (神戸大学大学院総合人間科学研究科博士後期課程:華僑経済史)
 第二次大戦前のアジアにおける華僑について、居住地での彼らの慣習や集団形成、対日ボイコットや日中戦争中の本国中国への援助など、従来からさまざまな研究がされています。特に近年は、アジア内部の貿易を支えた通商の担い手として華僑が注目される研究も多くなってきました。
 しかし、華僑史の視点で当時の華僑の経済活動を見ると、彼らの多くは鉱山や農園に従事する労働者であり、資本のあるものはそれらを経営し、さらには現地に工場を設立して工業製品を輸出する生産者の面を有していました。華僑製品のなかには、その性質と低廉な価格によってアジアの労働者向けとして大きなシェアを持ち、高級品としての欧米製品とは棲み分けが成立し、日本製品とは競合できるだけの品質を保持するものもありました。また、余剰資本が出たり、現地の景気動向によっては本国中国の工場に投資あるいは帰国して直接工場を経営するなど、中国の工業化を促進したとも言えます。特に1920年代は中国の工業化が、すでに工業化を進めていた日本のアジア向け輸出を圧迫し、アジア内部の貿易を拡大させる要因の一つとなりました。これには華僑による中国への投資と技術移転が関係していると考えます。
 私は、華僑を通商の担い手としてだけではなく生産者としても見ていくことによって、彼らの経済活動をより多角的に分析していきたいと考えています。そして、アジア全体の工業化とアジア内部の経済成長に華僑があたえた影響を研究していくことが課題です。会員の先生、先輩方にはご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。

坂井田夕起子 (愛媛大学非常勤講師:国民政府時期の地方行政)
 この度、入会させていただきました坂井田夕起子といいます。
 私の研究対象は中国国民政府時期の地方政治です。
 これまでは、南京国民政府成立時期から日中戦争期にかけての国民政府の国家統合の問題を追求してきました。その中では地方政府に焦点をあて、とくに河南省を素材として、地方の側から見た戦時における国家統合の問題を考えてきました。
 3月10日の日本現代中国学会関西部会春季研究集会では、「河南省の地方『自治』と国民政府−地方制度の統一と地域社会」という題で報告させていただき、多くの刺激を受けることができました。中華民国時期における自治の問題は、現在の中国の農村選挙の問題や台湾の民主化や政治制度を考える上でも、示唆に富むものであると考えています。
 今後は、さらに戦後の問題なども視野にいれつつ、さまざまな角度から地域社会と国家統合の問題を研究していきたいと考えています。
 どうぞご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします。

勝呂崇史(大阪市立大学大学院文学研究科博士後期課程:現代中国演劇)
 はじめまして、大阪市立大学の勝呂崇史です。
 現在、大阪市立大の松浦恒雄先生の下、現代中国演劇を中心に研究いたしております。最近提出した修士論文では、丁西林について書かせていただきました。
 演劇という舞台芸術は、文学の中でも特別な位置にあり、役者、観客の双方が必要であったり、完成品としては保存できず(たとえビデオ撮影しても、完成品の一部分でしかありません)、また、同じ完成品を見ても見る位置や、角度に影響されるなど、万華鏡のような魅力を秘めています。そんな、演劇作品を、ただ台本だけからあれこれと詮議することの無謀さも常に感じてしまいますが、逆に当時の俳優の演技や、演出家の演出、また観客の反応などをいろいろと想像しながら作品を分析していくのは、それはそれで楽しい作業です。只、その想像が何の根拠もなしでは研究にならないのですが・・・・・・。
 さて、今は作品の台本からの研究が主なのですが、やはり当時の研究で興味深いのは、中国社会全体から見た、当時の演劇像です。単に文字資料による知識人の視点だけでなく、それを取り巻くいろいろな社会層の人々との関わり合いなど、正確に把握することはほぼ不可能なことですが、特に演劇という半分は観客から成立している芸術を研究しているだけに、客席にいる人々のことも考えながら研究していきたいと考えております。
 まだ研究者と呼べないような駆け出しですので、皆様にはいろいろな面でご指導いただきたいと思っております。なにとぞよろしくお願いいたします。

☆編集後記
●ニューズレター第3号・関西部会春季研究集会特集号をお届けします。次世代の中国研究を担う若手の報告には21世紀の研究領域の多面化と研究方法の多角化を垣間見ることができ、また張憲文教授にご講演いただいたことは地域からの国際学術交流を深めることになり、今後の前進が期待される実り多い研究集会となりました。●この成果をバネに夏季の「西部大開発」、秋の全国大会へと研究会活動をさらに活性化してゆきたく、会員の皆様のいっそうのご協力、ご支援をお願いいたします。●つきましては、ニューズレターの内容を充実してゆきたく、掲載させていただける学会参加記、現地レポート等有益な原稿がございましたら関西事務局宛お寄せください。●北京で在外研修されていた関西事務局担当の瀬戸宏理事が3月末に帰国されました。
       (T.H.)

 発行:日本現代中国学会関西部会事務局
     〒562-8558 箕面市粟生間谷東、大阪外国語大学・西村成雄研究室
         TEL/FAX 0727−30−5242,または 072-848-3424
           E-mail:tetsuyama@pop02.odn.ne.jp

 日本現代中国学会関西部会・夏季研究集会予告     
   夏季研究集会「現代中国研究と西部大開発論」に寄せて
                        南部 稔 (神戸商科大学)
 中国で「西部大開発」が語られるようになったのには、アジア金融危機からグローバル化の脅威を実感し、それとともにデフレ経済化が進んで経済発展戦略の転換が意識されるようになったことが影響していると考えている。そしていま、アメリカ経済の減速、日本経済のさらなる低迷、アジア諸国の経済回復の鈍化など国際環境の不安定性が増幅してきたことからこの戦略がより具体的な形で提示されることになった。
 今春の全人代で朱鎔基総理は報告のなかで西部大開発戦略を今世紀半ばの第三段階目標を実現するための重要な布石にし、そのために第10次5ヵ年計画期には経済構造の戦略的調整と生態環境の整備に力をいれながらこの戦略に挑むとした。これはこれまでの東部中心の輸出志向型発展戦略からバランスを重視した内陸開発による内需主導型発展戦略への転換を意味するものと理解される。だがこの地域はもともと歴史的、民族的、地理的に複雑であるだけに、この戦略のなかでそれらのことがどれだけ配慮されるかが今後の重要なテーマになってこよう。しかも、中央政府は財政による「輸出」にはあまり期待せず、外資を積極的に取り込むようにしていくべきだという方針をすでに明らかにしているが、各地に自助努力を求めるようなやり方では自ずと限界が出てくることも懸念される。
 西部大開発の挑戦は確かに容易ではないであろうが、21世紀の中国のスプリングボードになりうるかについて経済、環境、民族などの分野からアプローチすることによって、今後の中国研究の一つの重要なステップになればと期待している。
       − 記 −
  1.日時:6月30日(土) 10:30〜17:30
  2.場所:大阪市立大学文化交流センター(大阪駅前第三ビル、16階)
  3.自由論題:午前中3人×2分科会(1人30分、討論10分)
    ※自由論題の報告者を公募しますので、報告をご希望の方は4月20日までに別紙申込書に記入の上、FAXで関西部会事務局へ申込んでください。
  4.特別講演:村田晃嗣氏(同志社大学)「ブッシュ政権の東アジア政策」
     著書『大統領の挫折』(有斐閣)、『フォレスタル』(中公新書)など。
  5.シンポジウム:「中国の西部大開発−21世紀のスプリングボードとなるか」
           司 会:南部 稔 氏(神戸商科大学)
 経済:石田 浩氏(関西大学)、ディスカッサント:上原 一慶氏(京大経済研究所)
 環境:北川秀樹氏(京都府庁)、ディスカッサント:大西 広 氏(京都大学)
 民族:王 柯 氏(神戸大学)、ディスカッサント:佐々木信彰氏(大阪市立大学)

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