日本現代中国学会関西部会 ニューズレター
NO.2 2000.8.1
☆巻頭言 第50回全国大会でお待ちしています
日本現代中国学会第50回全国大会実行委員長 京大経済学部 大西 広
会員の皆さん。第50回を記念して本学京都大学で開催される現代中国学会全国大会は10月21−22日となりました。関西部会では、7月8日の夏期研究集会でこのプレ・シンポを開催しましたが、時間は短かったものの議論は活発で、全国大会での再度の討論を期待させるものであったと思っています。そこで、ここではそのプレ・シンポでの感想を述べて、全国大会への会員の皆さんの関心を得らればと思っています。
ところで、先日の関西部会研究集会で俎上に挙げられたことのひとつは、中国研究がどのようなモチーフでなされているかということでした。そして、実際、私たちの関わる現代中国研究とは、数ある多くの研究分野の中でも、最も“思い入れ”の強い研究者によってなされて来た分野であるように思われます。プレ・シンポの報告者の中では、ある人が「ある時期の研究者は社会主義の優位性を証明するために中国を研究し、ある時期にはスターリン主義を批判するために研究した」とそのモチーフの問題に言及されましたし、また別の報告者・コメンテイターは文化大革命をめぐる評価基準のぶれの問題や文学研究におけるモチーフの問題を述べられました。
ただ、それでも、この“思い入れ”を少なくともそう簡単にマイナス評価していいものなのかというのが私が感じた感想でした。もちろん、私たちの研究は科学としてなされるものである以上、常に客観的なものでなければならず、したがって“思い入れ”のみが前面に出る非実証的なものであってはなりません。このことは言うまでもありません。ただ、本当のところは“思い入れ”があること自体が問題なのではなく、その有無はどうあれ、当該の議論が科学的であるかどうかのみが問題であった筈です。“思い入れ”自体を問題にしてしまうと、議論は逆に「こうした結論を持っているからダメ」ということになり兼ねません。これはそれこそ“思い入れ”のみが先行し科学的であり得なかった以前の議論と同じ過ちです。
ですからおそらく、私たちの議論の実証性を高めるというのがまずは何よりも課題なのではないでしょうか。あるいはその中で、従来の“思い入れ”の生成・発展・消滅とその研究への反映をも含めて、それら自体を客観的過程として研究する、そういう大きな枠組みが求められているのではないでしょうか。ケ小平の漸進改革路線とマルクス史的唯物論への“思い入れ”で研究をしている私の感想です。ともかく、十月の全国大会では多くの議論が可能なことを感じた夏期研究集会でした。
☆2000年度夏期研究集会
七月八日午前十時半〜午後五時半 大阪市立大学総合交流センター
○自由論題
◇政治経済分科会 司会:南部稔(神戸商科大学)
現代中国統計学会における『大統計学』論争について 大西広(京都大学)
中国統計学界ではここ約10年の間、数理統計学と伝統的社会統計学との統合をモチーフに「大統計学」を構想する動きがあり、それへの賛否が大々的に展開されていた。これは単に、両統計学の問題にとどまらず、中国社会科学への西側理論の導入をどう考えるか、西側近代理論とマルクス理論との相互関係はいかなるものか、を考える良き材料ともなっている。あるいは、中国思想界の一部としての統計学方法論が「社会主義国」らしくマルクス主義に彩られていたものだったのかどうかを再評価する契機ともなる。
そのような問題意識で行った報告の概要は,(1)この「大統計学」は伝統的な左派理論が中国において後退し西側近代理論が進出する過程の論争と評価できる。(2)その論争は西側近代理論の優位な中で続けられた。(3)その西側近代理論系列の議論は必ずしも理論的に正確なものというより時代状況に推された荒い議論も含まれている。(4)
しかし、おされている伝統的社会統計学がマルクス主義学説であったかどうかは疑問である。むしろドイツ系統のカント派理論の延長に位置付けられる。(5)したがって、思想界での現在の変化を通常の理解のように「非マルクス化」と言えるかどうかも疑問である。モチーフにおいてはそうであっても、そう言えるかどうかは「マルクス理論とは何か」についてのはっきりとした理解が必要となる。報告者のマルクス理解は通常のものと異なるので「非マルクス化」とは捉えない。(6)その意味で後退する中国社会統計学はよりマルクス的な流れの中で自らを鍛え直すことができる。(7)ただし、中国が大きく遅れをとった数理統計学分野で急速なキャッチ・アップをするためには対する学派(社会統計学派)のパージも歴史の一こまとして理解できる。以上である。
現代中国学会には馴染みのないテーマで質疑は活発にならなかったが、現在の思想界の変化を知り、評価する際のひとつのテーマであると考えている。
香港経済の競争優位について 古澤賢治(大阪市立大学)
本報告は,“The
Hong Kong
Advantage(香港の競争優位)”(邦訳近刊予定;ユニオンプレス)という著書に基づいて香港経済の強さを明らかにした.著者のミハエル・エンライトは,ハーバードビジネススクールの教授で,詳細な実態調査を前提に香港経済を冷静に分析している.本書は,香港返還の直前に発表されたものであったが,きわ物的な政治的論調がはびこっていた中で,香港の競争優位性を明快に示した.
香港経済発展の諸要因は,歴史的諸条件、天然の立地条件と各種のインフラ基盤のほか華僑・華人のデファクトな首都だという特性がある.香港経済の競争優位を支えてきた独自性にはまた,ユニークなコンビネーション(結合関係)がある.それらは政府と民間ビジネス、地元企業と海外企業、起業家型企業と管理型企業、短期決戦戦略と長期事業戦略といった要素の結合で,それぞれバランスのとれた関係を維持してきた.
香港経済の強さはまた,香港が単なるブリッジ(橋)やゲイトウエイ(出入り口)といったものではなく,オルガナイザー(Packager
and
Integrator)としての機能を果たしてきた点に有る.それを支えるのは,関連業種・専門知識(技術)のクラスター(産業集積)で,不動産・建築・インフラ、商業・金融サービス業、運輸・ロジスティクス、軽工業・貿易、観光業等の各クラスターがある.
香港の競争相手とされる諸都市にはシンガポール、台北、上海、シドニーがある.しかし上海及びシドニーとは補完関係,シンガポートはライバル関係にあるだけで,台北(台湾)とは政治的立場から直接の競争相手ではない.いずれの都市も,当面は香港にとって代わる状況になかった.香港経済の今後の発展には,各種の難問とともにチャンスも現れてきており,その優位性の真価が問われるのはむしろこれからである.
台湾総統選挙と中台関係
石田 浩(関西大学経済学部)
3月21日に台湾において第10期総統選挙が行われ、民主進歩党の陳水扁氏が当選した。これは、台湾の民主化の勝利であると同時に、台湾自立化の勝利でもあると考えられる。しかし、政権を担当することになった陳総統の前には問題が山積している。特に、台湾の存在を否定する中国共産党に対して、今後どのような政策をとっていくのかが、大きな課題となっている。 その最大の問題点は、1980年代末から加速化しはじめた中台経済交流の進展であり、台湾経済の対中依存の拡大である。
戦後、台湾の経済成長を牽引してきたのは、労働集約型輸出化工業を中心とする民間中小企業であったが、1985年のプラザ合意により台湾の輸出化工業は国際競争力を喪失した。そこで、安価な労働力を求めて、東南アジアへ生産をシフトさせた。1987年の戒厳令の解除と老兵の里帰り許可をきっかけにして、中小企業は対中投資を積極化させた。その結果,台湾の対外投資中に占める対中投資額と件数は、それぞれ40%と80%に達しており、「中国がくしゃみをすれば,台湾は風邪を引き肺炎をおこす」までに至った。それゆえ、1997年の香港返還をきっかけにして,台湾企業は香港を経由した間接投資を減少させた。そことが、あたかも台湾企業の対中投資が減少したかように見られているが、英領中米のヴァージン諸島やケイマン諸島を経由した対中投資が増大している。また、対中貿易においても台湾は中国から大幅な貿易黒字を得ている。
このような対中依存の拡大に対して、李登輝政権は各種の対中投資抑制策を採用してきた。しかし、台湾経済界にとって、中国はビジネスチャンスが多く、無視できない。それゆえ、当局が笛を吹いても,経済界はそれに従わない。また、本年度中に中台両者がWTOに加盟するといわれているが、自由貿易主義の原則から従来のような「三通」拒否は困難となる。以上のような、条件下で陳水扁総統の舵取りはどうなのか。この点について詳細に報告した。
◇歴史文学分科会 司会:田中仁(大阪外国語大学)
清代における小農経営の歴史的発展について 鉄山博(大阪商業大学)
本報告の主旨は、前近代中国における一田両主制の成立を小農経営自立化の側面からとらえなおし、あわせて中国農業の構成原理の一つである土地所有の重層性の意味とその歴史的連続性について考察することにある。先行研究では一田両主制は階級闘争史的観点から地主の佃戸に対する搾取強化と、佃戸の地主に対する耕作権確立をめざした闘争の成果という相対立する二つの見解が示された。また地主にとって一田両主制は資金調達と租田経営の簡素化に有益であり、一田両主制が寄生地主制に適合的なものであったことが明らかにされている(草野靖『中国近世の寄生地主制−田面慣行』汲古書院、1989年)。
小借地農にとっての一田両主制の成立の意義は、とりもなおさず物権としての田面権を取得し土地所有の重層性を実現したことにある。これによって小農経営には使用・収益する借地契約、債権・債務関係から田面を処分(転貸・典当・売買譲渡)できる土地の分割所有関係へと変化し、耕作権は永耕作権へと強化される段階が設定されることになる。つまり前近代中国における小農経営の発展過程を生産関係と経営資本の所有からみると、請負耕作農、分益農、小借地農および自作農へのプロセスがあったが、この発展の系譜の中に一田両主制を位置づければ、小借地農と自作農の間に「田面所有農」なる過渡的段階があり、それは農民的土地所有実現へのワンステップとしてとらえられる。もちろん、これは前近代中国の生産力が低位にシフトされたなかでの生産力の相対的上昇と商品経済の一定の発展を前提としたものである。そして前近代中国における一田両主制のもうひとつの特徴は、この生産力の相対的上昇分を再分配することによって過剰人口を支えるという側面である。大租戸(地主)・小租戸(田面所有農)・現耕佃戸(小借地農)という一田両主制が商品経済の発達した台湾において一田三主制の出現をみたことはこの証左である。この点からも生産力の絶対的上昇と田底権の形骸化をとおして近代的小農経営が展望されるであろう。さらに小農経営の発展プロセスは生産力が上昇した現代中国においてもこの伝統的原理は歴史的連続性をもって継承されている。農業生産責任制においては、包工(請負耕作農)→包産(分益農)→包干(小借地農)へと展開し、今や請負期間は30年となって永耕作権を確立して実質的には「田面所有農」の段階へと達し、「社会主義市場経済」の進展はすでに集団的土地所有権(田底権)の形骸化と土地私有権の実現を射程に入れている。
社団ネットワークとしての近代上海都市<社会>−上海救火聯合会に見るその公共性とリーダーシップ」 小浜正子(
鳴門教育大学)
本報告は、近代上海の都市<社会>を、人々の自発的な結社である各種の「社団」のネットワークによって形成されたものとしてとらえ、各種の民間社団が都市社会の公共的機能を担う中で育まれた近代中国の公共性について考察しようとするものである。特に、華界南市で活躍した民間消防組織である上海救火聯合会の事例を取り上げて、ブルジョアジーを中心とする地域エリート(都市エリート)の指導する公共性の存在を指摘し、現在の言葉で言うNPOの活発な活動が都市社会の公共性を育ててきた様子を紹介した。
上海救火聯合会は、20世紀初頭に地方自治が展開された時期に、そのリーダーであった商紳層のイニシアチブの下に「地方公益」を担うものとして成立した。それには商界を中心とする上海の民衆層(その多くは外地から上海へ移入してきた者である)も居住する地区や職業といった日常的な社会的結合関係を基盤に会員として参画していた。こうした地域エリートのリーダーシップと民衆の参画によって、拡大しつつある近代都市上海における公共性が外地からの移入者をも吸収しつつ形成された。当時の上海の各層の住民が救火会の活動にいかに熱意を持って取り組んでいたかは、消火作業によって殉難した救火会会員の追悼行事が非常に大がかりに行われたことからもよくわかる。
民国期、上海救火聯合会は発展を続け、階級対立の激しくなった国民革命を経た後も、指導部に叩き上げの会員を取り込んで、都市エリートが指導し民衆層の参画する共同性はなお健在であった。だが、日中戦争期の日本占領下、そして戦後国民政府期になると救火会には青幇の影響力が強まり、会員のモラルも低下して、都市社会の各層の住民の支持を失ってゆく。人民共和国成立後には救火会は上海市人民政府に接収され、民間社団の担ってきた都市社会の公共的機能は行政の担当するところとなっていったのである。(参考文献:小浜正子『近代上海の公共性と国家』研文出版、2000年)
“満洲国”期中国人文学者の歴史的位相
岡田英樹(立命館大学)
アメリカ人の東北文学研究者ゴールドブラッド氏が、台湾で発見した「満洲国」時代の極秘資料は貴重なものである。中央に「満洲帝国政府」と印字された罫紙に日本語で手書きされたもので、首都警察副総監三田正夫から警務総局長山田俊介に提出された「特秘報告書」というかたちをとる。「T、文化工作進展経過表」は、首都警察特務科によりおこなわれた「芸文演劇ヲ通ジテ行ハル思想運動ニ対スル偵諜」工作の報告であり、「U、最近ニ於ケル満洲左翼作家ノ描写方向」、「V、左翼作品ノ発見」のうち、Uは文学作品の「検閲工作」によって明らかにされた、左翼・抗日思想の描写傾向を総括したものであり、Vは具体的作品を対象に危険思想のあらわれを分析指摘したものである。実はこの資料、官憲側の思想調査、というだけですませられないものをもっている。
「二、三項ハ別途検閲工作ニ依ルモノ」と注記するように、U、Vは、関連性をもった一連の工作と考えられる。そしてUの前書き部分には「首題ノ件ニ対スル研討ハ、元作家季風、沫南、光逖ノ左翼?子ノ極メテ範囲狭キモ、毎月ノ定期不定期出版物検閲ニ因リ生マレタル結論ニシテ」という、ちょっと判読しにくい文章が記載されている。
李季風は、当時の文壇に名を知られていた作家で、特高に逮捕されながら二度脱獄に成功したということで隠れたヒーローといった存在であった。関沫南、王光逖らは哈爾濱で左翼的な文学活動を組織していて「哈爾濱左翼文学事件」で逮捕される。別件で逮捕された三人の作家たちが、首都警察拘置所にあつめられ特殊な任務を強要される。
「日本特務機関は、かれらに特殊な任務をあたえた。当時偽国内で出版されていたすべての雑誌・新聞を審査して、文章に反満抗日の思想感情があらわれているかどうかを研究し見つけさせる。もし文章に現実への不満があることを発見すれば、すぐに日本特務機関に報告させる。そうするとその作家も身を監獄におくことになる。季風はひそかに二人と協議して、『新人は保護して、ベテランを摘発しよう』と決めた。季風は、ベテランはすでに名も売れており、日本の特務も簡単には手を下せないだろう、と考えたのである。」(張烈「暗夜魔爪」『東北文学研究史料』第3輯、86.9)
以上のことから、上記極秘文章は、このように解読されるべきであろう。
「元作家季風、沫南、光逖という左翼分子が、極めて狭い範囲ではあるが、検閲をおこなったことから生まれた結論である」
○共通論題:全国大会プレ・シンポジウム「現代中国研究の五十年」
司会:石田浩(関西大学)、西村成雄(大阪外国語大学)
報告者 討論者
法律 宇田川幸則(関西大学)
西村幸次郎(一橋大学)
本報告では、現代化、改革・開放、民主と法制といったスローガンを唱えはじめ、それまでの中国と対峙しはじめた(とされる)1978年の十一期三中全会を、現代中国法研究五十年間の分水嶺とみなし、その前後での研究の傾向と問題点の整理を行い、それをふまえて、近時の研究の動向および今後の課題について、若干の私見を述べた。
十一期三中全会以前の中国法研究は、全体的傾向・問題点として、憲法・国家論、司法制度を中心とし、制定法を媒介としない国家秩序形成の試みを肯定的に評価し、実証性を著しく欠如いており、政治研究に力点がおかれ、法制史研究と断絶した研究であった。
十一期三中全会以降、中国自身の路線転換とも相まって、研究環境が劇的に変化した。すなわち、「法制建設」により、意欲的な立法活動が行われ、司法実務が活発化し、法学研究・教育もまた回復し発展した。その結果、資料の爆発的増加と公開度の向上がもたらされた。また、「対外開放政策」により人的・物的往来が活性化し、その結果、中国法研究のニーズ・関心が高まりをみせ、また、中国の大学法学部への留学も可能となった。
このような環境変化は、研究傾向に対しても、次のような変化をもたらした。これまでの憲法・国家論、司法制度を中心とした研究にくわえ民法・経済法分野の研究も増加した。伝統中国法との連続性を意識した研究や、近代法的視点からアプローチする研究が登場した。対象国に対する批判的観点からの研究が浸透した。アジア法的視点からの研究が登場した。また、1992年には、「現代中国法研究会」が結成され、日本初の現代中国法研究者による研究会が発足した。
近時の中国法研究のうごきとしては、以下のような研究環境の変化を指摘した。印刷メディアを中心とした資料が爆発的に増加するとともに、資料(裁判例なども含む)の公開度もまた更に向上している。データベースやインターネットの登場・普及といった、メディアの多様化も進行している。人的交流もまた拡大の一途である。以上をふまえ、実証的研究の素地は、基本的には形成されたといえる。今後の課題としては、まずはさておき、制度偏重的アプローチから完全に脱却し、法の運用過程、実際の機能の解明といった実証的研究を本格化させる必要性である。また、中国法・中国法文化の多様性の重視と、アジア(法)研究の一環としての中国法研究の必要性、社会主義と中国法の関係の実証的・理論的解明も、課題として挙げられよう。
経済
加藤弘之(神戸大学) 内藤昭(大阪市立大学名誉教授)
中華人民共和国の50年
:比較制度分析の視点から
本報告の目的は、比較制度分析の視点から人民共和国の50年を跡づけることにある。ここでいう比較制度分析の視点とは、経済システムの多様性を積極的に認め、「多様性の経済利益」(the
gains from
diversity)が存在することを実証的に明らかにしようとする視点である。
人民共和国の50年は中国独自の社会主義を追求した中国型社会主義の30年(毛沢東時代)と、漸進的な市場化を目指した改革・開放の20年(ケ小平時代)に大きく時期区分できる。毛沢東時代の中国は、当初、ソ連型計画経済システムの導入を意図するものの、早い段階から独自の社会主義への志向を強める。計画管理能力の低さ、地域経済の多様性から緩い集権制が採られ、自力更生、地方行政幹部の企業家的役割が強調された。そうした「属地的経済システム」はソ連型のシステムと比較してさえ非効率なものであったが、改革・開放後に地域間での激しい競争を生み出し、市場化の進展に大いに役立った側面もある。他方、市場経済への移行を目指したケ小平時代には、漸進的市場化が進められた。改革の漸進性それ自体が経済システム転換の経路依存性を示すものである。また、社会主義時代から引き継がれた地方政府主導型の発展パターンは、地域間での競争を通じた市場化の促進要因であると同時に、地域保護主義を生み出す土壌ともなった。中国の経済システムにおけるこうした独自性は、将来中国が形成するであろう「中国型市場経済システム」にも反映されるに違いない。
多様性に富む複数の地域からなる中国の現実は、理論の単純な当てはめを拒否している。とはいえ、中国は中国であるという事実を確認するだけでは不十分である。地域研究としての現代中国研究の存在意義は、理念型からの逸脱や「特殊」として取り扱われがちな「中国の独自性」を、多様性の内実としてすくい取り、「普遍の言葉」で語ることにある。
歴史 副島昭一(和歌山大学) 菊地一隆(大阪教育大学)
第二次大戦後の中国研究は,戦前の中国研究の反省から出発したが,とりわけ1949年革命の圧倒的影響の下に進められ,そこでの論点のひとつは停滞論批判であった。
それはまた中国侵略への反省=贖罪と社会主義への憧憬が共存したものでもあった。
1960年代までは革命史,とくに共産党史と人民闘争史が現代史研究の主要なテーマであった。そして,それは基本的に中共の戦略規定に基づく分析を基本にしたものであり,中共の路線の正しさを前提にしたものであったといえる。
このような研究方法に大きな衝撃を与えたのが文化大革命であり,日本の中国研究者は文革評価をめぐって分化した。そして文革に批判的な研究者は,対象の客観化を目ざし,文革に現れた問題点を歴史的にも明らかにする方向で研究をすすめるようになり,共産党支配区域,ソビエト区,抗日根拠地研究もこのような問題意識が見られるようになった。
さらに1980年代になると,1949年革命についても,これを到達点として見るのではなく,国民国家の形成過程の中に位置づける観点が登場し,国民国家論による民国史の統一的把握の方向が生まれた。いわゆる人民闘争史観では,国家は支配権力として革命の対象として位置づけられていた。革命の対象としての存在から国民国家形成の過程で生み出されたものとして認識されるに至った。それはとりもなおさず民国期の国家である国民政府および国民党の評価にも当然影響するようになり,さらには北京政府も国民国家形成の過程の中に位置づけられるようになりつつある。
他方,中国社会論・資本主義論についても,半植民地半封建論社会論の見直しが進み,現在の市場経済を歴史的射程の中でとらえる資本主義論の枠組みが提唱されるに至っている。他方,このような傾向は,社会主義や革命運動ににたいするシニシズムを生みだしていることも否定できない。
文学 阪口直樹(同志社大学) 瀬戸宏(摂南大学)
1.戦後50年において文学研究の対象がどのように変化したか通して見てみると、
(1)研究の対象から排除された毛沢東・文革・孫文、(2)人気度の低下した郭沫若・丁玲・趙樹理、(3)人気度の上昇した周作人・沈従文・巴金・王蒙・胡風・張愛玲といった傾向が見て取れるし、80年代に入って■清末・民初、■映画、■台湾、■演劇、■淪陥区などのジャンルが人気を得てきたこともわかる。他方、一見活況を示す80年代の状況に対して、第1世代研究者(丸山昇や阿部幸夫)は、文学研究が地盤沈下を起こしており、■研究者の増加や対象の多様化は興隆を意味しない、■資料洪水におぼれ、枝葉末節にこだわる研究の増加、■問題設定それ自体を問い直し、問題提起それ自身を含むような研究がないなどの問題点を指摘している。
2.80年代に入ると、中国の中国文学研究は、マルクス主義からの遠近を評価の基準とする過去の評価枠から脱する動きが起こり、■厳家炎「流派研究」、■李澤厚「啓蒙と救亡の二重変奏」、■劉再復「主体性論」、■陳平原等「20世紀中国文学」など、次々とマクロ的視野から新たな評価枠が提示されるようになった。
3.現在日本(中国も含め)における文学研究が、政治学・経済学などに比して相対的な地盤沈下を起こしていることはむしろは正常な現象であり、文学研究の対象は更に広く、国外逃亡の作家や、辺縁多重的角度といった独特の研究分野を求める必要もあるだろうし、中国が得意とするマクロ的方向ではなくて、現在元気な研究のジャンル(清末、台湾、話劇、淪陥区、“満州”など)が持つ日本的利点を生かしながら、メディア・教育など他の視角を導入したり、文学以外のジャンル(戯劇・映画など)を視野に含めた歴史的相対化を意識した方向に進むことが必要となるのではなかろうか。最後に、コメンテーター・質問者から出された、中国文学を紹介する任務、日本におけるマクロ的研究の成果、過去の研究成果等に関して充分な言及がなかった等の指摘については、本報告に補充する必要性を感じたことを付言しておく。
☆西日本部会設立記念シンポジウム報告
山田敬三(福岡大学)
これまでの「関西部会」には、愛知県以西・沖縄県までが一括されており、部会は名実ともに会員の実態から遊離していた。そのため昨年の全国大会では、山口県以西を分離して、新たに「西日本部会」を設立することが決定され、その設立記念シンポジウムが7月16日(土)午後1時30分から、福岡市総合図書館を会場にして開催された。
シンポジウムには、作家・評論家として三十数年来、台湾論壇に重要な問題を提起し続けてきた陳映真氏(雑誌「人間」編集長)を招聘、福岡市教育委員会・朝日新聞西部本社等の後援を得て、その内容を広く一般にも公開し、当日は学会員のみならず、現代中国に関心をもつ西日本地域の市民ら約120名も参加した。シンポジウムは「台湾現代史を見直す」というテーマに従い、岩佐昌ワ会員(九州大学)をコーディネーターとして以下のような順序で展開された。
基調報告
@台湾研究の現在……山田敬三(福岡大学)A台湾現代史を見直す……陳映真
パネラー
@安藤正士(九州産業大学)……歴史学の立場から A大林洋五(山口大学)……国際関係論の視点から B西村明(九州大学)……経済から見た台湾と中国 C横地剛(福岡貿易)……内戦期の中台関係
基調報告@では、次のような3点についての報告があった。
(一)西日本部会設立にいたる経過と、地域社会との今後のかかわり(二)陳映真氏についての紹介(三)戦後の日本における台湾研究略史と現状
基調報告Aでは、「台湾現代史を見直す」と題する陳映真氏の日本語原稿があらかじめ参加者全員に配布され、陳氏がそれを日本語によって朗読、民族分断に至った台湾の歴史が政治・経済学的な観点から詳しく分析された。
以上の基調報告をふまえながら、
パネラー@は1977年に台湾で編纂された教科書『認識台湾(歴史編)』について分析、それが「台湾人」を主体とする最初の歴史教科書であることを指摘した。
パネラーAは、大陸と台湾の双方から提起された「統一」の条件を対比しながら、そのいずれにも考慮すべき内容のあることに言及した。
パネラーBは、アジア経済危機の中でも、例外的に元気であった中国と台湾の経済実態を具体的な統計に基づいて指摘し、その相互補完的な役割に着目した。
パネラーCは、黄栄燦の版画を通じて、光復初期、台湾と大陸が同じ歴史の中にあったことを紹介。民衆の中に蓄積された視座に立つ研究の必要なことを提言した。
このような報告の後、フロアーからは意見や質問が続出、報告者との間で活発な議論が展開され、終了予定時刻を超過して、午後5時15分に散会した。この後、近くの中華料理店「南京」で開かれた懇親会には会場定員いっぱいの28名が参加して、交流を深めた。なお、陳映真氏の福岡来訪を記念して、横地氏の主宰する中国語講座の研究班が、陳氏の近作2編の翻訳と、山田敬三著「陳映真論」(岩波講座「現代中国」第五巻からの転載)を印刷し、当日の会場で配布した。
☆編集後記●
ニューズレター第二号関西部会夏期研究集会特集号をお届けする。今回の夏季研究集会も、春期研究集会に引き続き盛会となった。参加者の正確な数はわからないが、八十部用意した共通論題のレジメが早々になくなってしまったことからみても、百名に達していたことは間違いあるまい。●全国大会プレシンポジウムとして行われた共通論題は、巻頭言で大西広氏も述べているように、有意義なものとなった。全国大会にも、多くの人が参加されることを願ってやまない。●夏期研究集会から一週間後、山口以西の会員を対象とした西日本部会が立ち上がった。中心となった山田敬三氏に設立記念シンポジウム報告を寄稿していただいた。●このニューズレターは西日本(愛知・岐阜・富山以西)在住会員およびそれ以外の地区の理事に配布している。会員の研究成果を広く学会全体に紹介・還元するという趣旨からすれば、全会員に配布することが望ましいのだが、郵送費の関係でそれができない。この弱点を補うため、配布部数よりも多く印刷し、全国大会などで希望者は無料で入手できるようにした。●この方針が定まったのは二号からなので、一号については東京理事の中で配布されていない人がいる。ご了解いただきたい。(文責・瀬戸宏)
発行 562-8558 箕面市粟生間谷東・大阪外国語大学西村成雄研究室気付
日本現代中国学会関西部会事務局(0727−30−5242
FAX兼)