日本現代中国学会関西部会 ニューズレター
NO.1
2000.4.1
ニューズレター発行にあたって
通称「現中学会」の関西部会は、学会創立以来約半世紀にわたって現代中国研究の学際的討論の場を提供しつづけてきた。もちろん、その五十年間には曲折があり、研究対象である中国世界の変動からの影響をさまざまに受けるなかで多くの困難に直面しつつも、現代中国研究を通して日本における中国認識のあり方とその客観的位置づけの解明に努力してきた。その間の数多くの諸先達の懸命の成果に敬意を表すとともに、新たな世紀にむけて新たな世代がどのように中国研究にとりくむべきかを考える新たな段階に到達しつつあるように、誰もが実感しはじめている。
そして世界はすでに二十一世紀に入っている。中国も世界との共時性をますます増大させるなかで、世界の中の中国であることと、中国の歴史性とが複雑に交錯し、相互浸透する新たな局面を生みだしている。この両者の緊張関係のあり方と今後のゆくえをどう認識するのかをめぐって、実に多くの議論が多領域にわたって世界の中国研究者の間で展開されつつある。
現中関西部会は、毎年春期・夏期二回の研究集会を開催することによって、こうした新たな段階に照応する中国研究の最先端を開拓する試みを行ってきた。春期研究集会では、主として、関西地域の各研究機関などに所属する若い世代の研究発表をお願いし、それに対し年長の研究者からコメントをいただくという形式で活発な討論を実施してきた。夏期研究集会では、自由論題とともに共通テーマを設定し、たとえば昨年度には「中華人民共和国五十周年」をとりあげ市民にも参加いただく特別講演を実施し、多数の参加があった。本年度は全国大会の共通論題にむけてのプレ・シンポジウムを企画している。
すでに数年前から、関西部会ではこうした諸成果をニュースにして会員に配布できないだろうかという意見があり、とくに昨年度の関西地区理事会でその具体化をはかる計画がたてられ、今回、非常に簡単ではあるがニューズレターを発行することになった。
現代中国研究の守備範囲はきわめて広く、しかも学際的性格をもち、広義の地域研究としての性格を備えている。その点で、今後ますます多くの学問分野からの参入と、相互理解が深まらない限り、現代中国研究の深化はありえないともいえる。このニューズレターの発行を契機に、さらに一層の相互交流をすすめることができ、新たな世代の活躍をより一層支援することが可能となるような「現中学会」にできればと思う。
この企画を実現するにあたって多数の会員の皆様のご支援をいただいたことに感謝申しあげ、今後も継続できるようご協力をお願いするしだいです。
日本現代中国学会関西部会(文責・西村成雄)
2000年度春期研究集会
「新世代の現代中国研究」
日時 2000年3月11日(土)、午前10時30分〜午後5時30分
場所 大阪市立大学文化交流センター(大阪駅前第3ビル、16階)
●政治経済分科会 司会:西村成雄(大阪外大)
報 告 者 コメンテーター
土屋仁志(関大・DC) 川端基夫(龍谷大)
「台湾における日系百貨店の経営特質」
戦後におけるわが国百貨店の国際化のなかで,多数の店舗及び事務所が欧米やアジア地域へ設置されてきた。小売業が海外展開する目的は、海外商品の輸入やその開発はもちろん、自企業の国際化をアピールすること、そして厳しい規制下にある日本を離れての新たな資本蓄積手段の模索などがあげられる。このようなわが国百貨店による国際化のなかでも、1980年代末から始まる台湾への店舗展開はその出店数、店舗規模共に他の国・地域への出店と比して群を抜いており、しかも現時点における店舗経営は比較的成功しているといえる。
小売業が国境を越えて活動する際には、自国で培った経験とノウハウを基礎としながらも、現地の諸条件にも配慮しつつ適応ないし変化することが不可欠とされる。台湾に展開した日系百貨店は、まず現地大手企業と提携を結ぶことによって好立地の大型店舗を容易に獲得することができた。また日本的小売サービスを基本としながらも、店舗地下の「美食街」と呼ばれるフードコートの設置や年間5度のバーゲンセールの実施、経営面ではテナント多用の運営や定着率の悪い雇用事情などといった台湾の慣習に適応化していった。特にテナント活用は百貨店の三大経費の一つである人件費の節減をもたらし,総売上高に占める人件費比率は日本では平均的に10%前後であるのに対し,台湾では2〜3%という低水準となっている。
日系百貨店の台湾展開は,現地のプル要因によって実現され,進出後には,テナント活用面や人事面など多くの点で台湾の慣習に適応せざるを得なかったという受動的な側面がみられるが,結果的には高い利益率を獲得できる経営体質を確立することとなった。
徐慧(大阪大・DC) 西村幸次郎(一橋大)
「中国財産法の新たな展開―
契約法と物件法草案を中心に ―
」
本報告は、契約法や物権法草案の制定過程、その内容、特徴を紹介することによって、中国が市場メカニズムにふさわしい法律体系の整備(特に民法制定)に熱心に取り組んでいることを示した。
まず、立法過程において、次のような特徴が見られる。(1)従来の法律制定過程と違って学者の寄与度が大きい。(2)従来は中央省庁中心で草案を作成しており、今回は研究機関、立法機関、司法機関が協力して完成させた。(3)従来と違い、草案段階で民間の意見を取り入れて修正を加えた。
また、契約法の内容においては、次のような特徴が見られる。(1)従来、国家の契約に対する監督・管理のような強い介入があったが、新契約法は、これらの計画経済の要素を可能な限り廃した。それにともなって契約自由と取引奨励の原則を導入した。(2)
外国の理論を大いに参照した。また、契約締結上の過失、約款契約に対する規制、契約後の義務など、現代の契約法における最先端の法理も取り入れた。さらに、21世紀の契約法をめざして電子商取引にも対応して条文を設けた。(3)契約の相手方や内容によって適用法律が異なるという従来の多元的な契約法体系を廃し、一元的体系に変えようとしている。
そして、物権法草案の立法理念としては、次のような特徴がある。(1)従来は国家財産についてのみ「神聖不可侵」であるとされたが、本草案では、国家、集団、個人による所有権に平等に保護を与えることを宣言している。(2)日本のような資本主義諸国と同じく、動産・不動産の概念区分を基礎とした立法方針をとった。
このように、中国は従来の理念やイデオロギーに基づいた政策を大きく転換し、このような立法を行うほど、市場経済を取り入れるための法整備に努めている。物権法は採択まで4-5年間かかる予定となっている。これらの法整備を通じて、中国政府は契約法と物権法を基礎とする民法典を2010年に制定することを目標としている。
松村嘉久(大阪市大・PD) 許衛東(大阪外大)
「1990年代における英語圏の現代中国研究―
地域政策を中心に ―
」
1990年代に現代中国研究をめぐる環境は大きく変化した。現代中国に関する研究文献は日本のみならず英語圏や中国でも激増し,NACSISなどの文献検索システムが普及し図書館ネットが充実するにつれ,膨大な文献から必要なものを検索し入手することが容易になった。1990年代には中国でもインターネットが急成長し,『人民日報』の記事はデータベース化され公開されており,政府オンライン計画が充実するにつれ,中央のみならず地方の最新政策なども入手できるようになりつつある。総じて,1980年代には入手し難かった諸情報が,1990年代になるとリアルタイムで選択的に入手できるようになった。中国をめぐる諸情報が枯渇していた1980年代には,中国の特殊性を強調してInformationを提示するだけで学術論文となり得たが,1990年代はInformationをIntelligenceに加工して中国の普遍性を問う時代となりつつある。
加えて,1990年代には,日本のみならず英語圏や中国でも中国系の研究者が台頭し始め,中国語に堪能であるという日本人現代中国研究者の相対的な優位性は崩壊した。また,従来は必ずしも現代中国を研究対象にしていなかった研究者が,各々の方法論で現代中国研究に参入してきたため,1990年代には現代中国研究者の相対的な優位性も崩壊しつつある。新世代の現代中国研究者には,日本のみならず英語圏・中国での議論の展開を踏まえることが求められており,英語圏・中国でも研究成果を発表することも求められている。
以上のような認識のもと,本報告では,1990年代の英語雑誌に掲載された現代中国の地域政策をめぐる諸文献を回顧し,21世紀に向けての展望を示した。地域政策は,地域格差や地域問題の測定と認識,国家運営思想と地域開発戦略に対する認識,地域政策の策定と実施,地域の変容,といったサイクルで策定される。地域格差や地域問題の測定と認識では,地理的スケールや測定対象となる指標などが特に問題となる。
地域政策をめぐる1990年代の英語圏の研究では,地域格差や地域問題の測定と認識に関心が集まった。地域格差を測定する地理的スケールでは,主に農村部間,省間,都市・農村間,都市部間がとりあげられ,地域間や特定省内の格差分析はあまりなされていない。
測定対象となる指標は,圧倒的にアウトプット指標が多く,生活・消費関連指標やインプット指標の分析は少ない。
21世紀の中国地域政策研究に向けては,以下の5点が注目されると展望された。(1)新古典的な地域成長理論に変わる地域開発の理論的根拠が,中国国内でも模索されると予測されるので,その動向を追跡すること。(2)地域格差測定に際する地理的スケールの問題に取り組む必要があること。(3)制約付きながら人口移動が認可され,「貧しさ」や「豊かさ」が相対化され個人的に認識されるようになったため,認識レベルの地域格差研究が重要になること。(4)1990年代以降の諸改革のなかで,また中国の全体的状況のなかで,地域政策を位置付けて分析する視角が必要となること。(5)特定地域の地域構造を如何に変容させようとしているのか,中央政府のその意図を分析するためにも,投資や財政トランスファーなどのインプット指標の分析が重要になること。
司会:石田浩(関西大)
白石麻保(京大・DC) 佐々木信彰(大阪市大)
「中国後進地域農村工業化の現状と課題―1990年代以降の中部地域を中心に
―
」
中国では、1990年代に入って沿海部先進農村地域の郷鎮企業を中心に企業改革が推進されるなど、郷鎮企業の新たな発展路線が模索されている。これは、郷鎮企業を取り巻く環境の変化、即ちマクロ経済の売り手市場から買い手市場への転換、国有企業改革の進展、及び私営、個人企業の台頭等マクロ経済の変化等によって郷鎮企業の市場参入の機会がこれまでよりも減少していることから、郷鎮企業の市場競争力の増強が急務となっていることが要因と言えよう。こうした中で、一方で従来農村工業化が困難と指摘されてきた内陸・中部地域(ここでは吉林、黒竜江、内蒙古、江西、山西、河南、安徽、湖北、湖南の9省を指す)においても、1990年中盤に至って各省の産業構造に占める農村工業部門の割合が大きくなってきており、後進地域である中部においても農村工業部門が主要な位置を占めるようになったと言える。又、1995年以降の近年において郷鎮企業従業員一人あたりの増加値は、沿海部では減少しているのに対し、中部では順調に増加傾向にある。しかし農民所得水準に見ると、中部と沿海部の格差は明らかである。また、中部郷鎮企業の多くは小規模企業が中心で、技術水準が低く、分散化が著しい為規模の効果が得られず、付加価値が沿海地域に流出していくという事例も見られる。このように,中部では農村工業化の進展が見られるものの、農民所得の増加、農村経済の振興への農村工業部門の貢献は1980年代の沿海部のそれよりは顕著でないといえる。
こうした現状から、一部の地域ではこのような郷鎮企業の小規模、分散の問題を克服する試みとして、県政府が中心となってインフラを整備して工業小区を設置し、優良郷鎮企業を誘致するといった集中化を促進する政策が採られている。こうした政府主導の集中化は、農業部門をはじめとする農村経済にはどのような影響があるのか。中部における農村工業化は、沿海部と同様競争力の増強という問題の克服という課題と同時に、農村工業化の(沿海部より)急速な展開の農業部門への影響をはじめとして、検討されるべき課題が多く残されているといえよう。
中岡深雪(大阪市大・MC) 南部稔(神戸商大)
「現代中国の住宅論争―
単位分配から商品住宅へ ―
」
中央政府は改革開放以降、住宅の制度改革に取り組んできた。その主な内容は住宅供給体制の見直しである。従来の単位による住宅の実物供給体制は資金的に行き詰まっていた。そのため単位の実物供給を徐々に減らし住宅を商品として市場で販売(供給)する方向にシフトしている。政府は民間部門に商品としての住宅を供給させることで住宅供給の拡大を狙った。また単位を含む国有セクターの住宅に対する負担を軽減できた。これら一連の取り組みが住宅制度改革である。
住宅制度改革は90年代に入って急速に進展する。各単位は公有住宅の家賃改革やストックの払い下げを行った。一方で不動産開発企業(デベロッパー)が積極的に住宅建設を行うようになった。民間部門の住宅供給主体が不動産開発企業である。不動産開発企業が建設する住宅は売買の対象となり、商品として扱われることから商品住宅(中国語で商品房)と呼ばれる。商品住宅は住宅市場を考察するにあたって重要な形態である。
住宅市場の現状分析は上海を事例に行なった。上海市全体の住宅ストックは17,416万uで、内訳は公有住宅11,718万u・商品住宅4,680万u・個人建設住宅1,017万となっている。商品住宅の供給量は急激に増加した。しかし1998年までに売れ残った商品住宅は901万uで商品住宅ストックの5分の1にものぼる。政策で商品住宅の販売を促進しているが、商品住宅は本当に売れているのか?誰が商品住宅の購入主体なのか?その答えを出すために所得階層7分位別の可処分所得を用いて商品住宅の購入可能な階層を推計した。その結果最高収入戸か高収入戸くらいが実際の購入層であると判断した。しかしそういった階層にとっても商品住宅の購入は払い下げられた公有住宅の売却が前提となっている。
そこで結論では住宅の市場化=商品住宅という構図ではなく、公有住宅二級市場の運営が前提条件となっていることを指摘した。しかし公有住宅ストックも限られているためいずれは商品住宅市場へのステップアップを行なわなければならない。そこで今後の課題はステップアップのための環境整備であると考える。
松本充豊(神戸大・DC) 菊池一隆(大教大)
「国民党政権と党営事業−党の「改造」から1960年代末までを中心に−」
戦後台湾で発展を遂げてきた中国国民党(以下、国民党)の党営事業は、膨大な公営事業群とともに国民党政権の特権的支配の象徴とされている。本報告では、戦後、権威主義的な政治体制が確立されその最高の安定を誇ったとされる時期を取り上げて、1)法的には民間企業である党営事業の「特権性」がもたらされた要因とは何か、2)党営事業とは政府(政権)と党との関係においてどのような意味を持っていたのか、といった問題の検討を試みた。今回の分析を通じて明らかにされたことは、以下の諸点である。
まずは、党営事業の「特権性」を担保したものは、既存研究が指摘するような「党国一体」といったマクロ・レベルの構造的要因ではなく、ポストの兼任という人的要因であった。党営事業の管理を司る官僚(以下、党営事業官僚)は政府の金融官僚によって兼任され、主任委員を務めたのは中央銀行総裁の兪鴻鈞と徐柏園であった。金融行政を掌握する彼らが事業管理を担った結果、党営事業は政府の金融行政に関わるリソースにはほぼ恒常的にアクセスすることができた。その半面、開発行政に関わるリソースへのアクセスは制度的に制約され、彼らが開発行政の実権をも掌握した時期のみに限定された。
そして、国民党政権の金融官僚によって党営事業が握られたことは、2つの帰結をもたらした。第一に、党営事業が政府金融官僚の政策ツールとなったことである。行政院による「対匪経済作戦」において党営事業が動員されたことは、その実践としての事例であった。第二に、「党営事業官僚の限界」が規定されたことである。すなわち、開発行政リソースへのアクセスが制度的に制約された結果、党営事業は製造業部門に展開する場合、特に経営ノウハウなどのリソースについては民間部門に求めざるを得なかった。その帰結が民間の産業ビジネス・エリートとの提携関係であり、これにより党営事業は(国民党政権ではなく)国民党と彼らとの直接的な同盟の醸成装置と化したのである。
●文学歴史分科会 司会:青野繁治(大阪外大)
報 告 者 コメンテーター
吾妻智子(大阪外大・MC) 松浦恒雄(大阪市大)
「廃名小説における散文的構造」
中国現代文学草創期の作家、廃名(1901〜1967)は特異な文体の小説で知られ、とりわけ「難解」という点が大きな特徴である。その小説を「難解」なものにしている要因の一つが、その構造的特徴、すなわち、出来事が断片的に併置されるだけで全体として一まとまりの物語を作り上げることがないという点である。通常、散文的と評されるこのような構造は廃名文学の本質的特徴と考えられる。その典型的な例が短編小説「四火」(1929作)である。そこでは平凡な日常の断片が切り取られ並べられているだけであり、要約可能なストーリーと明確なテーマを抽出することはできない。小説において重要なのは全体の物語やテーマではなく、むしろ断片的に置かれた個々の場面のほうである。
一般に、物語性の稀薄な小説は五・四時期以降に外国文学の影響を受けて生まれたものだと理解されているが、廃名独特ともいえる構造的特徴は世界や人間を見通し可能なものととらえる西洋近代小説=リアリズム小説の方法に対する懐疑と、現実の世界で起こっている出来事は説明することができず、まとめることができないという認識に根ざしていると考えられる。廃名の三篇の長編小説はすべて伝統小説の形式である章回体を用いており、@各章が全編を離れて独立しうる、A同じパターンの繰り返し、B未完、C語り手が自由に介入する叙述形式、など伝統形式への意識的な模倣が見られる。廃名にとって「物語」のない散文的構造の小説は、自身の内的世界を含めて現実をリアルにとらえ、表現するための方法であった。このような廃名の小説は、近代を受容する過程においてある一つの理念や原理によって現実の世界を説明すること=「物語」が必要とされていた現代中国にあって長く理解されることはなかったが、いわゆるリアリズム文学が描き得なかった世界に光をあて、生き生きと描き出したその文学は、今日の読者にとって逆に新鮮な感動を与える。そこに廃名文学の意義がある。
張新民(大阪市大・DC) 斎藤敏康(立命館大)
「劉吶鴎の映画論」
従来の映画研究においては、1930年代の「軟性映画理論」に対して、反「左翼映画」理論として、政治的批判以外には、その理論の内容について、研究が殆ど行われていなかった。このような局面を打開する意味で、本報告は、「軟性映画理論」の代表者の一人である劉吶鴎の映画理論をとりあげ、映画は動きの芸術で、人々の感情を表し、絶え間なく観点(カメラの視点)を変化させながら、流れた映像と音響でストーリーを表現する芸術であるという映画への認識、形式は内容より重要であるという内容と形式の関係論、モンタージュは映画の生命要素であり、作品上の現実の創造主であるというモンタージュ理論、外面的リズムは内面的リズムより更に重要であるというリズム論、カメラは一つの観点を代表し、その観点の多変動というカメラ機構論などを中心に分析した。また、劉吶鴎の理論提唱はソ連のモンタージュとフランス純粋映画理論の影響を受けたこと、その理論自体は映画の形式美を強調し、映像表現を重視していることを明らかにした。そして、劉吶鴎は当時の中国映画理論の教育性、社会的効果などを重視した社会学理論中心の提唱から脱出し、映画の芸術表現を中心とする理論提唱を行うことで、映画がすべての芸術から脱却するという映画の独立芸術論、モンタージュ技法を強調する「映画的」理論概念、内面的リズムと外面的リズムの分類、カメラの観点変化論は中国映画理論、特に技巧理論を大きく発展させたことを評価し、劉吶鴎の映画論は映画の独自性を追求する芸術理論として位置づけた。また、その映画理論における形式、特に外面的形式偏重、文学と映画の区別の曖昧さ、モンタージュ理論への認識不足、内面的リズム軽視、そして制作者の主観を強調する「映画的」という理論観点と客観を強調する「美的観照態度」の矛盾点など、理論上の限界を指摘した。
田村容子(神戸大・MC) 藤野真子(大谷大)
「程硯秋の京劇改革」
程硯秋は、一九二〇年代から五〇年代にかけて活躍した俳優で、梅蘭芳をはじめとする「四大名旦」の一人である。彼は現実社会の問題に取材し、そこで起こる悲劇を描くことによって観客に問題提起する社会悲劇の実現を、民国期の京劇において達成した。
彼の社会悲劇制作の試みは、非団円で終る新編劇の制作から始まった。しかし、初期の非団円劇の制作に程硯秋自身は関わっておらず、また作品の内容に既存の物語構造を改革したといえるような新思想は盛り込まれていない。一方、程硯秋が制作に関与した後の新編劇は、形式が非団円で終ること以外に、内容面においても従来の京劇には見られなかった改革を認めることができる。
それは、過渡期的作品を境に、後期作品に顕著に見られる主人公以外の個人の登場である。そのため、後期作品には主人公対社会という単純な対立構造ではなく、各個人対社会を描くという発想を認めることができ、そのような内容の新しさを備えている点で、後期作品はより現実を反映しており、社会悲劇に近づいたといえる。
上演にあたり、程硯秋は、歌唱をはじめとする技芸を中心に内容を表現するスタイルをとることにより、観客に受け入れられる社会悲劇の実現を可能にした。技芸を中心としたスタイルとは、京劇の本質から逸脱するものではなく、むしろ古典に回帰しているという点で何ら新しいものではない。しかし、梅蘭芳の時装戯や程硯秋の初期の非団円劇は、京劇で現実社会を描くために、より現実社会に近いスタイル、すなわち台詞を中心とした会話劇によって内容を表現していた。それに対し、程硯秋の新しさは、現実社会の反映という革新的内容を、一見その内容とは相反する伝統的な象徴的演技によって表現し、実現したところにある。その結果、程硯秋は京劇として観客の鑑賞に堪えうる社会悲劇を達成し、京劇に社会性を盛り込むことに成功したのである。
司会:鉄山博(大阪商大)
内田尚孝(神戸大・DC) 副島昭一(和歌山大)
「塘沽停戦協定善後交渉と日中関係−通車・通郵交渉を中心に−」
1930年代前半期の日中の「外交」関係は、東京−南京間の公式の国民国家外交空間に一元化されていなかったことに最大の特徴を認めることができ、特に「満洲国」の樹立は日中外交の多元化を加速する作用を及ぼした。中国は、「満洲国」との問題を公式の国民国家外交空間ではなく北平政務整理委員会を通じて関東軍と「地方的」に解決することによって「満洲国」承認を回避することに努める。こうして「満洲国」問題を介して東京・「新京」(長春)−北平・南京という「外交」交渉ルートが開かれ、非公式かつ不正常な外交空間が拡大してゆく。東京−南京という公式かつ正常な国民国家外交空間が、東京・「新京」−北平・南京や東京・天津−北平・南京など非公式の外交空間に翻弄されていたことを考えると、この非公式かつ不正常な外交空間の実体を解明してゆくことは、30年代における日中「外交」関係の総体を考える上で極めて重要な課題であると言えよう。
塘沽停戦協定締結後北平を中心に展開された日中「外交」についての専論がほとんどないことから、35年になって突如華北において日中関係が悪化したようなイメージが支配的となっている。しかし、戦区接収、長城線の帰属、通車、通郵などの問題が協議された塘沽停戦協定善後交渉は、双方の激しい応酬に加え、しばしば中断、決裂し、日中間の溝が一層拡大していくプロセスであり、「華北事変」の前史はすでに始まっていたと言える。塘沽停戦協定の破棄を求める中国側とその遵守を要求する日本側との間に極めて対照的な志向性が顕在化するのは34年6月のことであった。通郵問題の解決を受けて中国側は非公式かつ不正常な外交空間を解消し、外交の一元化をはかるべく「三原則」を提起するが、それに対する日本側対案(広田三原則)がまとまるのは、支那駐屯軍がすでに「華北事変」を起こし日中関係が一層緊迫化した後の35年10月4日のことであった。
周太平(大阪外大・DC) 安井三吉(神戸大)
「蒙蔵委員会と内モンゴル政治―
1930年代前半期を中心に」
蒙蔵委員会は、1929年2月に設置された、国民政府のモンゴル、チベット問題を担当する機関である。その前身は北京政府における蒙蔵院であり、1911年のモンゴル独立と1913年のチベット独立という中国からの離脱をはかる政権ができて続いていたので、民国政府が中央チベットと外モンゴルを統治する力がなく、蒙蔵院の機能が内モンゴルだけに限られていた。しかし、内モンゴルにも中国と異なる政治系統が続き、また内モンゴルと外モンゴルに住むモンゴル人がそれぞれ封鎖して何の連絡のない道を歩んでいたわけではない。20年代末期、辺境の統合に南京国民政府はかつてない強い権力を用いるようになり、「改省命令」(1928年)を出し内モンゴル、寧夏、青海、西康地域で省県設置を実施する。省設置されてから、モンゴルの盟旗制度および政治的経済的権益がどうなるのか、省方との関係をどう処理するのか、というさまざまな問題が出されていた。そういう状態に置かれた内モンゴル側が国民政府との対話を行うと同時に、大衆による省県設置反対、開墾抵抗運動が多発する。とくに29年に入ると、中国に隣接するジリム盟やオルドス地方に開墾抵抗運動が激しくなり、その影響が内モンゴル社会全体に波及し、いっそう混乱状態となっていた。その時点で国民政府が蒙蔵委員会を設置したのは、半ば独立状態にある内モンゴルやチベットの統合化を早急に実現し、これらの地方に対する監視とコントロールを強めることだったが、有効的実施には非常に大きな限界があった。その原因としては、一、1930年代の内モンゴル社会において、盟旗の王公たちがまだ伝統的政治的影響力をもっていた。二、内モンゴル各盟に盤踞していた地方軍閥が内モンゴル社会を軍事的に握っていた状態だった。三、蒙蔵委員会は清朝の理藩院のように膨大な辺境統治機能も持たず、蒙蔵院のように開放的官僚機構でもなかったこと。にもかかわらず、近代内モンゴル政治の形成を議論するとき、蒙蔵委員会と関連するものが多い。内モンゴル側からみれば、蒙蔵委員会は中国政治の動静およびさまざまな内外情勢を、省方による情報閉鎖にあるモンゴル社会へ伝える重要な媒介になった。30年代前半期の内モンゴル政治にとっては、蒙蔵委員会をいかにするのかが目的ではなく、それを通じて国民政府とコンタクトをとってモンゴル独自の政権の獲得をはかろうとしたのがその目的だったと考えられる。徳王に追随した当時のモンゴル人のなかには蒙蔵委員会の関係者が多かったという事実に基づいて、今後の課題として、かれらの思想と行動を深く考える必要があると思う。
呉万虹(神戸大・DC) 陳来幸(神戸商大)
「中国残留日本人の中国定着」
中国残留日本人問題をみる場合、必要以上な同情、養父母などや中国定着した中国残留日本人への配慮が欠如している問題点がある。本報告は以上の問題点を考えるためになされるものである。
報告者は中国残留日本人を移住、残留、漂流、定着という四つの段階として捉えている。ここで言う移住、漂流、定着をそれぞれ次のように定義する。移住とは、いわゆる満州移民のことを指す。残留とは、日本敗戦以後、日本に引き揚げることができなく、中国大陸に留まらざるを得ないことを指す。満州移民から定着先を決める(日本か中国かの選択)までを漂流の時期と捉える。それは、中国残留日本人がアイデンティティ上と生活上において苦悩する時期である。定着とは、日本へ帰国するかもしくは中国で生き続けるかの選択を指す。帰国問題とは、漂流から日本への定着を選択し、実行する過程である。帰国と対照になっているのは、中国を定着先として選択することである。前者の帰国問題に関しては、若干の研究がある
が、後者の方は日本人研究者に看過される傾向がある。本報告としては、この両者の問題を視野に入れながら、特に中国定着を中心にして考えることにする。
中国定着にもいくつかの類型があり、主に中国定着の個人意思、アイデンティティ、中国へのプル要因と日本からのプッシュ要因の力関係といった三つの軸で類型化をおこなった。その結果、「本意定着」と「不本意定着」、「中国人アイデンティティ」と「日本人アイデンティティ」と「中間柔軟アイデンティティ」、「積極的定着」と「消極的定着」のようにいくつかの類型に分けることができる。
最後に、中国残留日本人の中国定着と日本帰国を比較してみると、彼らの中国もしくは日本の定着といった結果は、彼らのアイデンティティと一致する場合もあれば、必ずしも一致するとは限らない場合もあることが指摘できる。
●夏期研究集会・自由論題発表者公募
現中学会関西部会夏期研究集会自由論題の発表者を公募いたします。夏期は主に在職者からの発表をお願いいたします。応募希望の方は四月末日までに下記住所・日本現代中国学会関西部会事務局まで文書(FAXも可、テーマ,趣旨二百字をお書きください)でお申し込みください。ただし今回は以下のように午後にプレ・シンポジウムを行うため発表者枠が限られており、応募者多数の場合は理事会で調整する場合がありますので、ご了承ください。
●夏期研究集会予告
会場 大阪市立大交流センター)
日時 七月八日(土)
午前中 自由論題
午後 全国大会プレ・シンポジウム「現代中国研究の五十年」
司会 石田浩(関西大学)、西村成雄(大阪外大)
報告者(三十分) 討論者(十分)
政治法律 宇田川幸則(関西大) 西村幸次郎(一橋大)
経済 加藤弘之(神戸大学) 内藤昭(大阪市立大名誉教授)
歴史 副島昭一(和歌山大) 菊池一隆(大阪教育大)
文学 阪口直樹(同志社大) 瀬戸宏(摂南大)
総合討論(約一時間)
●編集後記
関西部会ニューズレター第一号をお届けする。今年の関西部会春期研究集会は、時間帯や部会で多少のばらつきはあったが、延べ人数では百人を越える盛会となった。第一号はこの春期研究集会報告特集である。新しい世代の若々しい問題意識を感じ取っていただけるものになっただろうか。当面は春・夏の研究集会報告として年二回程度発行を予定している。第一号は送られてきた報告要旨を配列しただけのものとなったが、今後は少しづつ充実させていきたい。
十月二一,二二日両日、京都大学で現中学会五十回大会がおこなわれる。開催校京都大学の代表もまじえ関西事務局で何度か検討した結果、五十回大会ということもあり、本年の共通論題は「現代中国研究の五十年」と決定した。今回は、夏期研究集会の午後いっぱいを別記のように全国大会プレ・シンポジウムとし、準備に当てることにした。夏期研究集会、全国大会とも多くの方が参加されることを期待している。(文責・瀬戸宏)
発行 562-8558 箕面市粟生間谷東・大阪外国語大学西村成雄研究室気付
日本現代中国学会関西部会事務局(0727−30−5242
FAX兼)
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