目次   巻頭言 中国研究今昔雑感  佐々木信彰  1
各地域部会研究集会・研究会報告  2
『現代中国』編集委員会報告  8
第53回全国学術大会開催要項  9
組織状況・編集後記  10



巻頭言
中国研究今昔雑感

                    関西部会理事  佐々木信彰(大阪市立大学)

 文化人類学を専攻する娘が、8月初旬にベトナムに旅立った。3週間かけて少数民族の現地調査をするという。彼女は一旦帰国後9月中旬には中国の青海省とチベットに出掛ける予定だ。今日の若者は国境を短時間に軽々と超えていく。私事を引き合いに出して恐縮なことだが、最近、齢のせいか昔のことを振り返ることが多い。30年前、娘と同じ20代前半には何をしていたかと考えてみる。
 1973年の8月に全国学生友好訪中団の一員として初めて中国を訪問した。金大中事件の起った東京の羽田から香港、深?、広州、杭州、上海、北京、長沙、韶山と中国革命の史跡を中心に回る3週間は「理想としての社会主義と貧困の現実の乖離」を強烈に経験する旅であった。今日、革命遺跡ツアーは中国でも人気だというが、同じ日程で同内容のツアーがあったとしても、もう参加する体力はないと思う。
 現代中国学会の全国大会にはじめて参加したのもおよそ30年前の第24回大会(1974年、横浜国立大学)でのことだ。共通論題は「中国社会主義と第三世界」であった。海外出張でない限り、全国大会には出来るだけ参加してきた。若い頃には本人の勉強不足から理解しがたい報告がかなりあった(研究対象に引きづられた報告者の生硬さも原因ではなかったかと今になって思う)が、多くの報告には熱があった。
 全国大会に出席することの最大のメリットは、現代中国研究の最新の成果を肉声で聞けることにあると思う。また現代中国研究は政治、経済、社会、歴史、文学等々と多面的な研究領域からなっているので、自分の専門以外の研究に直接触れることの出来る貴重な機会である。旧知の研究者と旧交を温め、さらに新しい出会いもある。学会のあとには未知の土地を旅行して回るのも、ひそかな楽しみである。いづれにしても学会参加の効用ははかり知れないほど大きい。
 こうして昔を回顧しながら、現実に戻ると、日本における中国研究と現代中国学会のあり様も、昔と比べると今日ではずいぶん変ってきた。たしか30年前には300名台であった学会員も700数十名と倍増し、中国人留学生と中国人研究者の登場、国際交流の増大も昔とは比べものにならない。国際化、専門化、情報化、若年化の四化への対応が一層迫られていると思う。
 このような大情況の変化の中で、全国大会を引受け準備するミクロ過程の中で考えたことだが、報告者とテーマの選定、学会誌の一層の充実さらには学会優秀論文賞の選定など21世紀にふさわしい新しい学会のあり方を老荘青三結合で侃々諤々と議論し、絶えず模索し、発展させることが肝要かと思う。

8月26日  

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◇各地域部会研究集会・研究会報告
関西部会夏季研究集会
 日時:2003年7月12日(土)
会場:大阪市立大学文化交流センター
集会テーマ「岐路に立つ中朝関係――"緩衝"地帯から"干渉"地帯へ――」

特別講演  李 英和(関西大学)
「岐路に立つ中朝関係――"緩衝"地帯から"干渉"地帯へ――」

−政治経済分科会−
(1)西島 和彦(明石高専)「人口流動化の進展と戸口関連規定の改革―戸籍制度を中心として」
コメンテーター  王 晨(大阪市大)
従来、中国の戸籍制度は「二元的」との表現がなされてきた。計画経済期に策定された1958年戸口登記条例を法的根拠とする当該制度は、しかし、戸口移転政策の改革や戸口管理システムの再構築、および食糧・就業・教育など関連分野における諸制度の見直しを受け、流動化社会に適合的な制度へと形を変えつつある。
1984年から進められた食糧自弁での農村都市部への落戸(戸口の移転を伴う移動)を容認する政策はその後、2001年には移転に対する拘束性を大幅に希釈した内容をもつ全国レベルの統一的方針として再構築されており、また全都市部においても、公安部は1998年、母系継承性の見直しや同居家族の戸口分離問題の解決策を示すとともに、一般都市部への落戸に関する指針を明らかにしている。一方、都市に長期居住している非常住戸口者に対しては、「暫住証」を通じた管理を整備することにより、広範な地域における、早い時期からの、精度の高い管理を行うとともに、合法的居住者としての地位を確定しており、都市部への落戸の際の要件たる「当地での実際の居住・生活状況」の安定化を可能なものとしている。都市暫住者にとって今なお最大の懸案の一つである随伴子弟の就学問題についても、借読制度を整備するとともに、実際には義務教育の主要な場所ではあったが非公式とされてきた「民工子弟学校」に対する規範化を行い正規の学校と認定することにより、問題の解決が図られようとしている。
都市常住戸口の取得は「越えられない壁」から「飛び越えられる敷居」へと変化しているが、しかしなお「敷居」の存在により実際の居住状況が即常住戸口としては反映されえない現時点においては、暫住管理制度が実質的な移動を保しており、その一方、「飛び越える」にあたっての居住・就業実績は暫住状態において形成されるという意味において、当該制度は戸口移転政策に適合的に作用している。

(2)高橋 宏幸(京都大学大学院)「中国のビール産業とその流通システム」
コメンテーター  内藤 昭(大阪市大名誉教授)
 本報告の目的は、中国のビール産業を概観し産業構造の特徴とその変化の動向を明らかにすること、さらに、現地調査に基づいて日本企業の進出が既存のビール流通の枠組みを変容させたのか否か、その実態を解明することにある。
急速な経済成長と外資企業の相次ぐ参入により、ビール産業は飛躍的な成長を遂げた。しかし、企業間の競争が激化し、地元の小規模業者が赤字を抱える状況が次第に顕著になってきた。合併・提携など業界再編の動きが、特に1990年代以降、急速に進行している。こうした状況下で、日本企業は積極的な投資を行い、順調に現地生産を拡大してきた。
ところで、中国における商品流通はこれまで行政による指導下に置かれ、必ずしも効率的とは言えなかった。その代表例が、閉鎖的・少経路・多段階を特徴とする流通構造である。改革・開放政策は小売・卸売の改革を進め、社会主義市場経済体制への移行は伝統的な卸売構造を崩壊させてきた。しかし、依然として多段階の卸売過程が根強く残る。
 ビール流通は業務用・家庭用で一部違いが見られるが、後者の場合、大規模な「一次卸(国営)」を介し、中小規模の「二次卸」、「三次卸」を経て末端の小売店という流れが一般的である。日本企業は既存の流通の枠組みを大きく変え、簡素化された独自の流通網を形成しつつある。また、代金回収問題に対しても、現金取引を採用する一方、それに代わる商取引の可能性が模索され、一部では手形による決済も試みられている。
これらを可能にした要因としては、@日本企業は市場参入の後発組だったため卸との間に既得権益関係が発生しなかったこと、A製品の円滑な供給をはかるために強力な特約店ネットワークを早急に確立する必要があったこと、Bビールを扱う卸の多くが90年代以降に開業し、個人経営が中心であること、C新規卸が従来とは異なる商習慣にスムーズに適応できたこと、などが挙げられる。

(3)厳 善平(桃山学院大学)「人口移動、経済発展と市場化−人口センサスによる実証分析−」
コメンテーター  加藤 弘之(神戸大学)
 本稿では、中国が近年実施した数回の全国人口調査の集計資料および関連の経済統計資料を駆使し、改革開放時代における地域間人口移動の実態を多面的かつ動態的に捉えること、地域別の人口移動率および地域間移動率の決定要因を計量的に分析することを主要な目的とした。以下、主要な分析結果をまとめ、残された課題を示す。
 T節では、中国における地域間人口移動を捉える枠組みおよび移動人口に関する基礎概念の整理が行われ、それによって各調査における地域間人口移動の設問内容、中国独特の戸籍制度に起因する「暫住人口」、国際比較が可能な5年前常住地ベースの「期間移動人口」ならびに出生地ベースの「生涯移動人口」等が明らかとなった。
 U節では、各調査の移動人口に関する定義の異同に注意を払いながら、移動人口の総数、移動人口の対全人口比(移動率)、移動範囲、移動流、地域集中および地域間の結合度、移動率と所得水準の関係を分析した。
 V節は省市区別の移動率および省市区間の移動率を規定するさまざまな要因を計量的に解明するものである。
 W節では、人的資本論の考えが組み入れられたトダロの地域間移動モデルを援用して、省市区間の人口移動関数を計測し、移動に与える要因ならびにその変化傾向を明らかにすることを主な狙いとした。
 本稿は中国国家統計局の公表した集計資料をもとにしたものである。そのために、移動人口の捉え方や計測に使われる変数の選定等は利用可能なデータの枠内でしかできない。2000年センサスでは国際通用の移動関連の設問が数多く採用されており、本来ならば、さまざまな角度から移動の分析が試みられるが、今のところは不可能である。したがって、本稿で検出された多くの事実関係はまだ初歩的なものであり、計量分析からの結論も暫定的なものも含まれている。今後、新たなデータの公表があれば、分析を深めていく。(長文のため一部割愛させていただきました……編集者)

(4) 梶谷 懐(神戸学院大学)「中国の内陸開発と政府の再分配政策」
コメンテータ:佐々木 信彰(大阪市大)
近年の中国においては、94年の分税制導入に続き、西部大開発、農村税費改革など「再分配」をめぐる状況にに影響を与えるよう政策的な動きが相次いでいる。本報告の基本的な目的は、それらの政策的な変化によって地域・政府間の財政資金の分配をめぐる状況が具体的にどのように変化したかを明らかにすることである。
本報告では、政府間の財政資金の再分配のメカニズムを、省間、そして省以下の地方政府相互間の二つにわけて、それぞれをめぐる状況が分税制導入前後でどのように変化したのかを明らかにしようとした。特に、いくつかの省の県レベルの財政収支のデータを用いた分析の結果からは、中央政府からの補助金(特に特定補助金)が、省間格差を縮小させないが、省内格差は緩和する傾向を持つという興味深い結果が得られた。
 このことは、分税制導入以前の政府間財政資金再分配について指摘されていた、不十分、不平等性、恣意性などの問題点が、分税制の導入によってもほとんど解決されていないということを意味している。また、西部大開発や税費改革などの最近の動きは、そういった政府間の財政資金移転に関する根本的な問題解決を行わないまま、特定地域への重点的な補助金の投入や末端部分での財政収入の規範化を行うことで対処しようとするもので、このためむしろ中部地区の貧しい地域の財政収入が深刻化するなどのゆがみが生じているものと考えられる。

(5) 大西 広(京都大学)「中国経済分析のマルクス=新古典派的アプローチ」
コメンテータ:山本 恒人(大阪経済大学)
本報告は@報告者が最近,『中国経済の数量分析』(世界思想社)との編著を出版したこと,A10ケ月のアメリカ滞在でアメリカの中国研究との方法論上の差異を再認識したこと,B中国経済学会で中兼和津次氏との方法論的やり取りをしたことを契機に,本学会でも方法論論争を活性化すべきとの趣旨から行なったものである.基本的な主張は以下のとおりである.
@中国経済分析には,地域研究,マルクス派アプローチ,新古典派アプローチ,開発経済学,転換(移行)経済学があるが,そのどれが望ましいかの議論がない.A特に開発経済学と転換経済学は「移行」の前段の体制理解が「社会主義」と「途上国経済」で本来相矛盾するにも関わらず中兼氏の近著のように双方の方法を用いる研究が多い.B報告者は「社会主義」を資本主義の初期段階に一般的な「国家資本主義」と規定することでその矛盾を回避して双方のアプローチを両立させている.Cその理解は「資本蓄積が社会の中心的課題となった産業革命後の社会」として資本主義を定義する独自のマルクス主義=史的唯物論に基づいている.Dその独自のマルクス主義理解は新古典派的な最適成長論モデルとしてより厳密に表現可能である.つまり,報告者の方法論は,マルクス派アプローチ,新古典派アプローチ,開発経済学,転換(移行)経済学のすべてを統合している.
この報告には,マルクスに拘った研究がこれまでの本学会の研究を停滞させたとの反論があった.がしかし,そのためにもマルクス理解自身をこの機会に刷新し,また新古典派や開発経済学,転換経済学をも取り込む新たな方法論の琢磨が必要だろう.そのために,本学会として今後こうした問題が正面から議論されるよう強く希望する.反論者ともこの点については大会後の懇親会でほぼ意見が一致した.

−歴史文学分科会−
(1)王 恵珍(関西大学大学院) 「日本統治期に於ける台湾人作家 龍瑛宗の『花蓮体験』について」
コメンテータ:下村 作次郎(天理大学)
龍瑛宗(1911‐1999)が1941年5月から1942年1月までの約十ヶ月を過した花蓮での生活が、彼の文学にどのような影響を与えたかについて考察した。龍瑛宗が「花蓮体験」を通じて得た主要なものとしては、次の三つをあげることができる。一、「杜南遠シリーズ」として分類できる自伝的小説を書いたこと、二、台湾原住民族に対する再認識をしたこと、三、「客家意識」を再確認したことである。今回は、「杜南遠シリーズ」と「台湾原住民族に対する再認識」を中心に報告した。
「杜南遠」とは、龍瑛宗の花蓮時代以降の作品に登場する作中人物名である。「杜南遠シリーズ」の創作は、時期とその作品を、大きく分ければ以下のようになる。1.太平洋戦争開始前の「白い山脈」、2.太平洋戦争開始後の「龍舌蘭と月他一篇」、「海の宿」3.戦後の「夜の流れ」、「断雲」、「勁風與野草」。今回は、戦前期に当る1と2についての比較検討を行った。これらの作品の主人公は全て杜南遠、舞台は東海岸(花蓮)である。これらの作品は、龍瑛宗が花蓮での生活体験に基づいて、植民地における台湾人がどのように時代を生き抜いたかをリアルに描いた点で共通している。また、太平洋戦争勃発後、激化してゆく戦局の影が主人公杜南遠の形象の変化に、敏感に反映されていることが読みとれる。その変化には、作家龍瑛宗が、戦時下提唱された「生産的」、「建設的」なスローガンに呼応している姿勢をうかがわせるものがある。
龍瑛宗が、日本統治期に台湾原住民族に対して強い関心を示していることは、当時の台湾人作家では異例のことであると指摘されている。龍瑛宗の作品に描かれた台湾原住民族像については、次の四つについて報告した。1.家族史に現れた台湾原住民族、2.紀行文に描かれた台湾原住民族、3.花蓮での生活体験から描き出した台湾原住民族、4.龍瑛宗の描いた原住民族像から見える「民族融和」の概念について報告した。
龍瑛宗は、「都落ち」の気持ちを抱いて、花蓮に赴任したのだが、多民族が共存している地方都市花蓮港市での生活の中で、彼は、アミ族と身近に接することが出来た。それによって、作品の中に、アミ族の友人との交友、街で目にするアミ族の生活の姿、海と戦うアミ族の姿を描き出た。報告では指摘するにとどめたことだが、自分と同じように東部に渡ってきた客家人たちが、ここで生き残るために、どのように勤勉に働いたかについても、その姿を作品に書き留めた。この時代の台湾東部の辺鄙な地方で生活している人々の生き方をこのように題材として作品に取り入れているのである。
花蓮の「新開地」を舞台にした作品で、龍瑛宗は民族の垣根を越え、明るく素朴な人情をもつ庶民の世界を描きだしているのである。戦局が厳しくなって、植民地におけるインテリの苦悶と憂鬱などを訴えることが出来なくなった時期、彼は、花蓮でこのような庶民の世界を識り、新たに創作の出口を見出し、「台湾」を描き続けたのである。つまり、龍瑛宗はこうして、台湾人作家としての責任を果たしたのだといえるだろう。

(2)中村 みどり(千葉大学) 「上海時代の陶晶孫 小説『濃霧』について」
コメンテータ:太田 進(同志社大学名誉教授)
29年はじめに帰国した陶晶孫の帰国後の主な活動として、創造社後期メンバーとともに、上海芸術劇社を拠点に中国初と言われる左翼演劇活動を行なったことと、郁達夫から引継いだ『大衆文芸』を、座談会形式の導入や「少年大衆」、「通信」欄の設置など、日本の『文芸戦線』の編集を意識した左翼文芸誌へ作り替え、海外の優れたプロレタリア文芸作品を紹介したことがあげられる。
 今回の発表では、このような背景のもと、30年に支那書店から出版された、陶晶孫の戯曲・小説集『濃霧』に収録されている小説を取り上げた。資本家に圧迫される三等室乗客の悲劇を第三者の視点から語る、「濃霧」のようなプロレタリア的題材を扱った作品もあるが、最初の小説集『音楽会小曲』('27)のように、中国人留学生「彼」と日本の少女との都会的な恋愛を描いた作品「Kissproof的臙脂」なども見られる。ただ、同作品では、「彼」の少女への思慕の壁として「民族」のみならず、『音楽会小曲』では登場しなかった「革命思想」という壁も書き込まれている。「彌吉林和雪才納」は、左翼活動家となったかつての日本人同級生を養うため、昼は「大学教授」、夜は「ダンスホールのラッパ吹き」という二重生活を送る日本帰りの主人公「私」が登場する。友人が強制送還される前に残した、「君はやはり小ブルジョアだ」という言葉を胸に、「私」は「時代から外れた異邦人」意識を持ちながら、上海の街をさ迷う。なお、「濃霧」は当初『大衆文芸』に「李無文」の名で発表されており、これは陶晶孫の筆名の一つであると言える。
 『大衆文芸』において、陶晶孫は「遅れている知識人を啓蒙する」ために、芸術性を伴なったプロレタリア文芸作品を育てようとしていた。理論以前に、書き手の個性や文体の斬新さ、そして知識人としての戸惑いに向おうとする書き手の姿勢が、『濃霧』の作品に窺える。そのような姿勢は、陶晶孫自身が傾倒ぶりを語る、文芸戦線派の村山知義のモダニズムに影響を受けているように思われる。なお、コメンテイターの太田進先生をはじめとし、文芸戦線派と陶晶孫の大衆文芸理論の結びつきについて、貴重な示唆を頂いたので、今後、この点を課題とし、論を深めていきたいと思う。

(3)島田 美和(大阪大学大学院) 「綏境蒙政会の民族論」
コメンテータ:田中 仁(大阪外国語大学)
 綏遠省境内蒙古各盟旗地方自治政務委員会(1936.1成立.以下綏境蒙政会)は、高度自治を目指した百霊廟蒙政会から分裂して生じたモンゴル人組織であった。従来の研究では徳王の百霊廟蒙政会に代表されるモンゴル・ナショナリズムが注目されてきたのに対し、綏境蒙政会に加わった盟旗の王公、総管については国民政府や省制府に追随的だったと評価されてきた。しかし、国民政府と省政府が実施した「分区自治」制度を受け入れ、綏境蒙政会に参加したモンゴル人たちの政治的思想的背景については十分に解明されたわけではない。そこで本報告では当時モンゴル人が発行した雑誌等における言論の分析を通じて、中華民国への参加の問題がどのように議論されてきたのかを検証した。
具体的には以下の点を確認した。第一に、綏境蒙政会に参加したモンゴル人の背景には、@孫文に由来する「五族共和」と建国大綱の自決自治主義を根拠とする百霊廟蒙政会の高度自治論に対するモンゴル人内部からの不満、A烏伊王公の陜西省から北上する共産党への警戒、B徳王らと関東軍との接近に伴う抗日機運があった。第二に、王公と省制府との蒙旗における教育推進会議、モンゴル人青年による王公以外の委員の決定、トムト旗総管栄祥からの防共弁法の提案等は、綏境蒙政会内でのモンゴル人の主体性を示す事例であった。第三に、こうした活動の中で、五族がそれぞれ平等の立場であるとした「五族共和」論ではなく、孫文が発案し国民政府が発展させた漢民族主体の「中華民族」論が王公、モンゴル青年の間でも受け入れられていった。
以上の考察から次のことが結論できる。1.綏境蒙政会の成立と活動は、モンゴル人の一部が主体的に国民政府、省制府との結合を求めた結果であった。2.そうした彼らの政治的行動を支える民族論として、五族共和と同じく孫文の系譜を引きつつも、国民政府の基本政策と合致した中華民族論を自らの意思で鼓吹した。

(4)佐藤 一樹(愛知大学・院生) 「胡適の教育観と党化教育の相克に関する一考察−1924〜1927年−」
コメンテータ:陶 徳民(関西大学)
本報告のテーマは、胡適の教育観と24年中国国民党改組後に形成された党化教育との対立原因を双方の教育観の相違に求め、主に20年代に流行した平民教育に対する双方の教育的理念と目的を分析し、なぜ胡適が党化教育に同調できなかったのか、という問題を探究する事にある。
本報告では双方の平民教育に対する言動を分析し、二つの対立原因を見出した。一つは、アメリカ留学時代から形成された胡適の教育救国観と、そうした非政治性に立脚する教育救国論を否定して形成された国民党の教育理念との相違である。もう一つは、デューイの学説であり、その影響を受けて形成された胡適の個性重視の教育観、即ち民衆の自立性を養成するための教育と、党義中心の教育から革命思考を啓発し、国民革命に従事させるための教育、即ち以党治国の理念に由来する党の指導によって民衆に教育を施し指導する、という教育目的との相違である。そしてこの二つの相違点を、胡適が党化教育に同調できなかった理由であると結論付けた。勿論この二点だけが対立原因の全てではなく、今後の課題としては、他の原因にも着目し、更に本テーマの実証性を高める必要があろう
ここで示しているテーマ、即ち、リベラリスト胡適の教育観と以党治国に由来する教育観の対立の構図は、北伐後、一応中国を統一した南京国民政府がその後も推し進めた党化教育(党化の名称は28年に廃止され、その後の名称は党義教育或いは三民主義教育)と、引き続き対立したいわば南京国民政府成立後も争われ続けた重要な教育問題の一つである。
最後に、貴重なご意見、ご指摘をしていただいた、諸先生方に対してこの場を借りてお礼を申し上げたいと思います。

(5)川尻 文彦(帝塚山学院大) 「J・レベンソンの『儒教中国』理解をめぐって」
コメンテータ:緒形 康(神戸大学)



関東部会5月定例研究会
テーマ 瞿秋白研究
日時  5月31日(土)13:30-17:00  
会場  東京大学教養学部1号館101番教室
     (京王井の頭線「駒場東大前」下車徒歩1分)
発表者 江田憲治(日本大学文理学部)「中共党史から見た瞿秋白」
鈴木将久(明治大学政経学部)「瞿秋白の翻訳論:魯迅との対話を軸として」
コメンテーター 三木直大(広島大学総合科学部) 白井澄世(東京大学院生)
司会 山口守(日本大学文理学部)

関東部会夏季研究集会
日時:7月12日(土)
会場:東京大学駒場キャンパス8号館306会議室
報告1:「日・中・台における歴史教育の比較――歴史教科書を手がかりに」
     段 瑞聡 氏(慶應義塾大学商学部)
報告2:「中国「反日」の構造」
     清水 美和 氏(東京新聞編集委員)

◇『現代中国』編集委員会報告
1.『現代中国』77号掲載の論文・研究ノートについて、本年一月末の締め切り時点で、昨年(21本)を上回る22本の投稿があった。編集委員以外の会員から一投稿につき二名の査読者(非公開)を立て、その判定に基づき三月二十八日開催の編集委員会で論文掲載一本、条件付き論文掲載四本、研究ノート掲載二本、条件付き研究ノート掲載六本、不掲載九本の審査結果を決定した。査読所見は、査読者の氏名などがわからないよう十分注意したうえで、原則としてそのまま複写して投稿者に示した。
 条件付き(要書き直し)原稿は、査読者のうち原則として厳しい判定をした査読者に再査読を依頼した。再査読の結果、条件付き研究ノート掲載投稿二本が再書き直しとなった。再書き直し原稿については編集委員会が再再査読をおこない、一本が掲載決定、一本が掲載不可となった。編集委員会は再再査読をもって投稿原稿に対する審査を打ち切った。この結果、論文五本、研究ノート七本の掲載が最終的に確定した。
 このほか、昨年度全国大会共通論題報告に基づく特集原稿が二本、特別寄稿が一本ある。いずれも査読はない。
2.『現代中国』77号編集は全体としては順調に進み、急げば八月の早い時期に発行することも可能であったが、従来の全国大会時発行(大会参加者に手渡し)も郵送料を節約できるメリットがあるので、事務局と協議し今年も全国大会時発行とした。
3.編集の過程で、論文と研究ノートの相違、電子メール投稿の可否など現在の投稿規定の問題点がいくつか明らかになった。これらの問題点は編集委員会で検討中だが、投稿・執筆規定の改定は理事会(全国大会時開催)の承認を要することが六月の常任理事会で確認されたため、『現代中国』77号には新しい投稿・執筆規定を掲載することができない。理事会で投稿・執筆規定の改訂が承認された場合は、すみやかにニューズレター、ホームページに掲載するので、『現代中国』78号に投稿を希望している人は全国大会後発行のニューズレター、ホームページに注意していただきたい。
4.『現代中国』77号目次は次の通り。(配列順などは変更される可能性もある)
特集 日中関係の新段階―摩擦から共生へ―
丸川知雄 家電・IT産業にみる中国企業と日本企業の競争力
伊藤一彦 国交正常化30年と21世紀の展望
特別寄稿
郭徳宏(村田忠禧訳) 最近の中国における現代史研究をめぐるいくつかの論争
論文
竹茂敦  1970年代初頭台湾『断交外交』に関する一考察―セネガルとの例を中心に
福士由紀  日中戦争期上海における衛生と社会管理―コレラ予防注射を例として
田淵陽子  1946年2月外交関係をめぐるモンゴル人民共和国と中華民国―『エリンチンソノム記録』をもとに
子都晶子  満州国政府による日本人移民政策実施体制の確立と「日満一体化」
島田順子  分裂と多重性―聶華苓『桑青与桃紅』
研究ノート
坂田完治  中国における「有事」―戒厳法が想定するもの
白石麻保・矢野剛 中国における民営化の進展の特徴とその合理性―無錫郷鎮企業を中心に
崔学松   文化大革命期における延辺朝鮮族自治州の外国語教育
湯本国穂  梁漱溟『東西文化及其哲学』はどう理解すべきか
余項科   中国結の政治化過程
大東和重  <自己表現>の時代―郁達夫の時代―郁達夫『沈淪』と五四新文化運動後文化空間の再編成
子安加余子 顧頡剛と民衆文化―『歌謡』から通俗読物編刊社へ
会務報告
投稿規定・執筆規定
編集後記
(編集委員会代表 瀬戸宏)


◇第53回全国学術大会開催要項
会場 大阪市立大学学術情報総合センター
 10月18日(土)自由論題報告
          午前9時30分より(受付開始9時)午後4時40分
        総会 午後4時40分〜午後5時30分   会場 10F会議室
          理事長挨拶 坂元ひろ子(一橋大学)
          議事:会務報告,決算・予算案など
        懇親会 午後5時30分〜午後7時30分  会場 10F研究者交流室
            会費 一般会員5000円  学生会員3000円

 10月19日(日)共通論題報告・全体討論
          午前10時より(受付開始9時30分)午後4時50分

大会実行委員会事務局
〒558−8585 大阪市住吉区杉本3−3−138
大阪市立大学大学院経済学研究科 佐々木信彰研究室気付
TEL&FAX 06−6605−2296(佐々木研究室)
E-mail  sasaki@econ.osaka-cu.ac.jp


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[編集後記]
 10月18、19日の2日間、大阪市立大学にて全国大会が開催されます。担当校の佐々木信彰先生からは巻頭言をいただきました。
 大阪の今年の話題といえばタイガースの快進撃。例年なら好調なスタートを切っても後半失速するのですが、今年はどうやら18年ぶりの優勝が決まりそうです。「どうせ今年もあかんやろ」から「えらいこっちゃな」へと大阪人のつぶやきが変化するのにそう時間はかかりませんでした。
学会開催日はちょうど日本シリーズ第1戦、第2戦が予定されているそうです。この機会に夜の道頓堀あたりへ繰り出してみられたらいかがでしょうか。きっと景気のいい光景を見ることができると思います。
ところで学会ホームページとニューズレターをどのように機能分担させていくか、そういう問題を含んだ学会の広報活動に関わる議論が、現在各理事会でされております。統一見解がまだ出ていない段階ですので、提出のあった関西部会研究集会の報告要旨は今号については従来通り掲載することにしました。結果として長々としたものになってしまいましたが、どうかご了解いただきたく存じます。
(編集担当 新谷秀明)