第5報告(15:50〜16:40)
「『七五年憲法下の中国人民司法』再考――公判・「宣判」大会の位置づけを中心に」
通山昭治(九州国際大学)
 いわゆる「新生の事物」とも称された文革期に全盛期を迎えた「公審大会」(そのほか、公判大会・「宣判」大会などともいう)では、とくに「判決の言い渡しにあたっては」、「当時全国各地で、つねに一万人、はては数十万人が参加する公審大会が開催され、罪人を批判しそれと闘争し、判決を言い渡して(刑を)執行した。ある若干の地方では、さらに百万の大衆を組織し、生産や業務を停止して、公審の実況を聴取した」という事実が確認されている(『当代中国的審判制度』上、1993年、当代中国出版社)。
本報告では、今日的にも注目されるこの問題を中心に、文革終息期の「七五年憲法下の中国人民司法」の再考をつぎのように行いたいと考える。つまり、1 まず、歴史的には、建国初期の土地改革期における「公審」大会にさかのぼり、福地いま『私は中国の地主だった−土地改革の体験−』(1954年8月、岩波新書)にもとづいた紹介を行い、その原型を確認する。そこでは、当時、人民政府の構成部分であった人民法院のさらに「民事廷・刑事廷以外の特別法廷」としての人民法廷と、「農民協会が指導する大衆的な闘争会方式」ではない「公審大会」との関係や位置づけが問題となる。つまり、「闘争会−公審大会−正規の裁判」という形で右へいくほど、その後正規の裁判形式に徐々に近づいていくことが目指されるのだが、これを逆に左にいくと、いわゆる人民裁判的な要素が際立ってくる。なお、「公審」の現場や裁判の傍聴席にいる大衆の「発言権」の許容など、とりわけ量刑に対するそれは、人民参審員の権限にも似てくる。2 さきの振り子が大きく左にふりきれた絶頂期の批判闘争会の例は、厳家祺・高皋著(辻康吾監訳)『文化大革命十年史』(上)(1996年12月、岩波書店)による「批判闘争大会」の状況の紹介などで確認できる。
 以上を踏まえて、この問題を歴史(伝統)と変革(改革)のはざまに位置づけてみたい。