第2報告(13:00〜13:50)
「戦後東アジア国際秩序の再編と中国残留日本人の発生――『遣送』と『留用』のはざまで」
大澤武司(中央大学)
 新中国成立後、中国残留日本人の帰国問題は、1950年代に日本側は日本赤十字社、日中友好協会ならびに日本平和連絡委員会から構成される「民間三団体」、中国側は中国紅十字会という「民間」団体が交渉を行なった結果、1953年に中国残留一般日本人の帰国手続きを定めた北京協定が締結され、同月以降、1958年7月までの間に紆余曲折ありながらも集団引揚(約3万2500名)が実現したことで一応の解決をみた。とはいえ、長崎国旗事件以降の日中交流全面断絶とこれに影響を受けた「戦後日中民間人道外交」(民間経由の「人道問題」解決交渉の総称。国交不在の日中間における事実上の戦後処理という側面を持った)の終焉は、いわゆる「中共地域」における日本人消息不明者調査を不徹底なものとし、加えて「未帰還者に関する特別措置法」(1959年3月)により消息不明者の戸籍抹消が実施されたことから中国残留日本人の帰国を阻害し、中国残留孤児、あるいは婦人問題発生の淵源となったことは周知の通りである。
 戦後60年余が経過し、日本の戦争責任、あるいは戦後責任を改めて追及する声が国内外で高まるなかで、中国残留日本人問題にかかわる諸問題に関する学術研究も著しい進展を見せつつある。具体的には、中国残留日本人発生の起源や経緯、現地中国における生活状況や帰国過程、さらには帰国後の日本への定着過程や日本での生活状況など、歴史学的あるいは社会学的なアプローチによる実証研究が増えつつある。だが、東西冷戦の確立期にあたる1940年代後半から1950年代にかけての東アジア国際秩序再編という文脈において、つまり、米国、ソ連、中国国民政府あるいは中国共産党、さらには日本という諸勢力が織りなす「国際政治の力学」の文脈において、いかにして中国残留日本人が生み出されたのかという視点からこの問題を捉えようとする視角は、ほとんど存在してこなかった。
 今後、中国各地の地方档案館で精力的な史料調査が実施され、中国残留日本人発生過程に関する実証研究が数多く出現することが想定されるが、これに先立って、中国残留日本人の発生過程を概観すべく、米国の戦後東アジア政策とこれをめぐる米中間の対立の狭間で、中国残留日本人の大部分を占めた中国共産党軍・政府機関関係留用日本人技術者ならびにその家族が残留するに至った構造的な要因について、国際政治的な視点から考察を試みようとするのが本報告の目的である。