第4報告(13:50〜14:40)
「陸軍「蒙古通」軍人の系譜――関東軍の内蒙古工作を中心として」
森久男(愛知大学)
 昭和期の日本陸軍の大陸政策は、省部(陸軍省・参謀本部)の中堅幕僚を中心とした派閥抗争を横糸とし、擡頭する「支那通」軍人を縦糸として展開されていった。「支那通」軍人の政治思想と行動パターンは各々異なっており、陸大卒業後の任地・任期・ポスト・人脈等の違いから、各地域ごとに異なったタイプの「支那通」軍人が登場し、彼らの一部として「蒙古通」軍人が存在している。「蒙古通」軍人としては、陸大出身者(天保銭)のほか、東京・大阪外国語学校で蒙古語を学んだ語学将校、陸軍士官学校の出身者(無天)、退役軍人にも特徴ある「蒙古通」が存在している。
 満州事変の際、関東軍参謀片倉衷少佐は、内蒙古自治軍の指導や満州国興安省の創設にあたって重要な役割を果たした。1932年8月の陸軍定期異動で、板垣・石原・片倉等の「満州組」は関東軍参謀部から更迭され、小磯国昭参謀長・岡村寧次参謀副長・遠藤三郎作戦参謀等が着任し、翌年春の熱河作戦・長城作戦・関内作戦を経て、5月末に塘古停戦協定が締結された。当時承徳特務機関長松室孝良大佐を中心として初期内蒙工作が開始された。松室承徳機関長の更迭後、梅津・何応欽協定・土肥原秦徳純協定にかけて、土肥原奉天機関長が華北分離工作・内蒙工作を指導している。
 1935年3月、田中隆吉中佐が関東軍参謀部第二課主任参謀として赴任するや、多忙な土肥原少将に代わって内蒙工作を担当し、察東事変、蒙古軍政府の樹立、綏遠事件の首謀者となった。内蒙工作(蒙古国建設計画)の全体構想を立案したのは松室大佐で、田中参謀がその青写真を実行に移し、綏遠事変の失敗と盧溝橋事件を経て、1937年3月に関東軍参謀に復帰した片倉中佐が「蒙古独立」を「蒙疆高度自治」に修正して蒙疆政権樹立の基本構想を起案している。
 本報告の課題は、蒙疆政権成立史を解明する予備作業として、熱河作戦から盧溝橋事件にいたる関東軍の内蒙工作に焦点を合わせて、各類型の「蒙古通」軍人の思想と行動の軌跡を分析することにある。