第4報告(13:50〜14:40)
「陶晶孫と村山知義――1930年前後を中心として」
中村みどり(早稲田大学)
陶晶孫(1897−1952年)は、中国現代文学に日本モダニズムの文体と描写を持ち込んだ作家と評される。本発表では主に、1920年代中期には前衛芸術家として、1920年代後期から1930年代にかけては左翼演劇作家、演出家として活躍した村山知義と陶の接点を明らかにする。なお、すでに中西康代氏によって、陶の小説「Cafe Pipeau的広告」が村山の小説の前衛的な文体と酷似していること、また小谷一郎氏によって、陶が村山の作品を初めて中国に紹介したことが指摘されている。本発表では、実際の陶と村山の交流を踏まえ、その上で村山の小説と戯曲が陶の文芸活動と作品に与えた影響について考察したい。
陶は1929年帰国後、上海の芸術劇社で左翼演劇活動に従事し、脚本および舞台演出を担当した。帰国後発表された陶の小説からは、陶が日本留学時代に村山も参与する左翼演劇の本拠地築地小劇場に出入りし、演出について学んでいたことが窺え、演劇を通した陶と村山の交流が推測される。また、陶は1929年から1930年にかけて左連の機関誌となる『大衆文芸』の編集を担当し、海外のプロレタリア小説や戯曲を精力的に紹介した。そのうち陶がもっとも多く翻訳を手掛けたのは村山の作品であり、陶と村山は様々な文芸活動を通して接点があったことが確認できる。
『大衆文芸』誌上で翻訳、紹介された村山の作品は一見プロレタリア風の題材を扱っている。しかし、同作品には、前衛芸術家であった村山ならではの独特な作風と実験的な文体が見られる。1930年前後は、日本の多くの知識人の興味がモダニズムからプロレタリア文芸へと移りつつあった時期であり、村山の作品もまた時代の色を映し出していた。当時陶晶孫は、最初の作品集『音楽会小曲』(1927年)で描いたモダンで浪漫的な作風を残しながらプロレタリア文芸の試作に取り組んでいる。1930年前後、モダニズムとプロレタリア文芸の狭間にあった陶晶孫の文芸活動と作品には、同時代の村山の文芸活動と作品が影響を与えていると思われる。