第3報告(13:00〜13:50)
「中国映画はどのように語られていたのか――戦時日本における中国映画論」
晏?(一橋大学大学院生)
1920年代では、日中映画は接点のほとんどない二本の線のように、並行して発展していた。1930年代の初頭に起きた「満州事変」、第一次上海事変をきっかけに、両者が接触しはじめる。1930年代後半、盧溝橋事変と第二次上海事変が勃発すると、ニアミスが時々発生したりしたに過ぎない二つの映画が鮮明に交錯していくようになる。特に1939年前後、戦争の要請によって、日本主導の国策映画会社が中国に設立されると、互いにほぼ無関係だった二つのナショナルシネマの内部に、相互接触と接触による摩擦が頻繁に起きるようになってくる。映画製作、輸入、配給などの分野で、そうした接触と衝突が繰り返される「越境」事態の発生によって、二つのナショナルシネマが互いに浸透しあうようになる。
これまで、このような越境的映画現象、絡み合っていた映画史は、既成の映画研究ではきちんと検証されてこなかった。しかし、このような視座こそが国別の映画史、ナショナルシネマ研究にとっても不可欠のものだということは自明である。だとすれば、日中映画はどのように絡み合い、互いに浸透していったのだろうか。この日中映画交渉のルーツとも言えるのは、映画作品の輸入、製作などに先立って現れた映画をめぐる言説だった。
日本では、中国映画に関する論述は1920年代末期から、断続的に文学雑誌や映画誌に登場した紹介記事に始まる。これらの記事は「上海摩登」に注ぐ視線を交えつつ、中国映画への関心を引き起こしただけだった。しかし、1930年代に入ると、中国映画をめぐる言説は次第に日中戦争に巻き込まれつつ、戦争のイデオロギーに見合ったように変貌し、最終的には「大東亞共栄圏」の理念に吸収され、日本映画史と中国映画史を語るのにともに欠くことのできない重要な部分を成していく。本発表はこうした問題意識に基づいて、戦時下の日中映画の越境現象を作り出すのに大きな役割を果たした言説を取り上げる。主に代表的な中国映画論者・岩崎昶、矢原禮三郎、飯島正、川喜多長政、筈見恒夫、清水晶らの論点を通して、日本における中国映画論の軌跡を検証する。