報告要旨
自由論題:政治・法律分科会

【第1報告】
『浣渓沙・和柳(亜子)先生』に見る毛沢東の国家関係観
             法政大学大学院政治専攻博士課程 楊 京

 毛沢東の『浣渓沙・和柳(亜子)先生』は、1950年11月に書かれた詞である。毛沢東の詩詞のなかで、この作品の知名度はわりと低い。この詞が公開されたのは1986年9月であり、人民出版社出版の『毛沢東詩詞選』の「副篇」に収録されている。以下は詞の原文である: 
顔?斉王各命前 多年矛盾廓無辺 而今一掃新紀元
最喜詩人高唱至 正和前線捷音聯 妙香山上戦旗妍
 「顔?斉王各命前」の出典は『戦国策・斉策』の一節「斉宣王見顔?」である。顔?という処士は斉王にたいして「士こそ貴く、王は貴くはない」と説き、斉王を屈させたのは、この一節の主旨である。毛沢東が詩詞の冒頭で典故を用いたのはきわめて異例なことである。いままで冒頭の一句の「顔?」、「斉王」とはそれぞれなにを、だれを喩えるのかという問題にたいする論者たちの答えは、全て『毛沢東詩詞選』の注釈を踏襲している。「『顔?』とは柳亜子を、『斉王』とは蒋介石を指している」という解釈は、少なくとも中国国内では通説として定着されている。
 拙論はこの通説にたいする批判である。毛沢東と柳亜子との詩詞の唱和の経緯と、この詞の作成された時間、背景から推測すると、「顔?斉王各命前」の一句は柳亜子、蒋介石とはなんの関係もないと断定できる。この詞が朝鮮戦争の進展を中心テーマとするものであり、毛沢東はこの典故を用いて当時中国の対外関係の現状を喩えようとしたのである。いわゆる「第一戦役」の終了から、平壌奪還を象徴する「第二戦役」の勝利までの間にこの詞が作成されたという事実から考えると、「顔?斉王各命前」とは中国とアメリカが互いに譲歩あるいは屈服を要求したことを指し、したがって「多年矛盾廓無辺」とは歴史的に、そして現に中国とアメリカ帝国主義との矛盾を指している、と推測するのは自然であろう。しかし一旦視野をもっと広げ、「各命前」に拘らずに『戦国策』原文の内容を吟味すると、以上の解説は毛沢東の個性と理想に抵触する疑いを免じないといわざるをえない。
 もしこの典故は中国とアメリカの関係を指すものではないとすれば、ほかに考えられるのはただひとつ、中国とソ連との関係を指すものである。もっと具体的にいうと毛沢東とスターリンとの関係を指すものである。金日正の戦争計画をめぐる毛沢東とスターリンとの意見の相違、参戦問題をめぐる両指導者の齟齬、ひいてはスターリンの指導に対する毛沢東の歴史的な不信感など事実を検証したうえで、論説を展開させる。
 この詞は「詩言志」の典型である。現実の問題を考慮するとき典故あるいは歴史的経験に「前例」を求めるのは毛沢東の思考パターンである。この傾向は国際関係の問題に関しては一層つよいものである。この詞から毛沢東が追求しようとした国家関係の理想像を見取ることはできよう。詞のなかに潜まれていたソ連にたいする毛沢東の不満はのちになって、周知のように強烈な形で現わされた。


【第2報告】
中国04年改憲と人権
               長崎県立大学 坂田 完治

 中国政府は、2004年の全国人民代表大会で憲法を改正した。過去3回(1988年、93年、99年)の改憲と比較し、今回は改正幅が最も大きい。新規の内容として人権の尊重・保障の明記、「三つの代表」理論が盛り込まれたほか、戒厳を「緊急状態」に改め、また私有財産の不侵犯を明確にするなど、重要な意味をもつ諸改正が目につく。
 本論は、人権の尊重・保障が初めて憲法に盛り込まれた、いわゆる「人権入憲」を取り上げ、そこに中国共産党・政府のどのような政策意図が働いているかを明らかにする。
 一般論でいえば「人権重視」は評価されるべきだとの印象を与え、中国の官製報道では賞賛・賛歌があふれている。しかし、その一方で党・政府の公式文書の分析や、人権をめぐる社会状況を点検すれば、人権を憲法に取り込むことによって、逆に一定の「枠」に取り込もうとする政策意図が析出されてくる。
 つまり、人権概念の自由な拡大、あるいは社会の中における人権要求・主張の高まりに対し、むしろ防衛的な姿勢で臨んでいることが分かる。
 以上の点の論証を中心にしながら、中国共産党・政府の人権観を改めて把握し直すことを課題としたい。これは、同時に人権というフイルターを通し、中国共産党の統治の実像を把握する試みの一環という意味合いも持っている。

T 「人権」とは?――董雲虎論文の分析
 一、強調される「公民の基本権利」と「人権」の一致
一、「権利の享有」と「義務の履行」の統一性(一致性)
一、 新たに浮かび上がる党・政府の人権観
U 「中国の特色ある人権」の苦境
 一、揺らぐ生存権・発展権の優位
一、貧富格差の無視できぬ拡大
V 社会における人権要求の高まり
一、 行政法規の違憲性の審査を求める建議書の提出(孫志剛事件)
一、 死刑の審査許可権を最高法院に戻すよう求める建議書の提出
一、 全人大の「不作為」への不満
W まとめ
 一、「緊急状態」と人権
一、人権保障の展望


【第3報告】
紅衛兵の「極左思潮」を巡る試論
                 中国政治研究者 中津 俊樹

 文化大革命(1966-1976:以下、文革)期に活動した紅衛兵のうち「極左派」紅衛兵に関しては、彼等が中華人民共和国建国以降の国家体制を「紅いブルジョワの支配」と見なし、既存の党・国家機構を含めた全ての官僚機構の解体と、新たな政治・社会秩序としての「コンミューン型」秩序の樹立を目指した事等が、既に明らかにされている。一方で、いわゆる「極左思潮」の性質を巡っては、例えば湖南省の「極左派」組織・「省無連」の「極左思潮」に関して、「マルクス・レーニン主義、毛沢東思想の教条にそったもの」、「無政府共産主義の影響」等という、その性格において全く異なる見方が提示されているように、評価が定まっているとは言い難い。文革期においては、「極左」という概念が含む対象には「省無連」的な「コンミューン」理念を掲げた組織に加え、この種の方向性を全く示さなかったにも関わらず、文革の過程において毛沢東らの方針と対立する行動をとったために「極左」とされた組織も存在していた。この事は、文革当時において既に"「極左」派=「省無連」的組織"という図式が、必ずしも絶対的なものではなかった事を示している。このように考えれば、「極左派」紅衛兵という存在を専ら「省無連」的イメージによってのみ捉える事には、限界が存在していると言えるのではないだろうか。それは同時に、「極左派」における多様な方向性の存在を見落とす事にも繋がるであろう。
 本報告は以上の点を踏まえ、「極左思潮」における多様性について新たな角度からの検討を試みるものである。具体的には、「省無連」的「極左派」紅衛兵の「極左思潮」と、「トロツキズム」との類似性に着目する。ロシア革命の指導者の一人であったトロツキーは、レーニンがプロレタリア革命の目的として掲げた、「国家の最終的消滅」を目的とする過渡的国家の出現という理念が、スターリン体制下で次第に党を中心とする官僚支配の国家体制へ変質したと批判した上で、新たな前衛党の指導下での「第二の補完的革命」による、革命当初の理念への回帰を主張した。一方、「省無連」的「極左派」紅衛兵は先述の立場に基づく政治・社会秩序の変革と、それを指導する新たな前衛党の結成を目指した。両者は、@現存の党組織と国家体制が革命当初の理念から逸脱したとの認識を基に、A既存の共産党に代わる新たな前衛党の指導下での、革命当初の理念の実現を目指したが、Bその主張ゆえに共産党と対立し「異端」とされた−という共通点を有していたと考えられる。
 中国でのトロツキストの活動は中華人民共和国建国直後に停止しているが、一部のグループは海外へ移動し、中国本土への浸透を図った。また、1949年以前にトロツキストが中国国内で一定の影響力を有していた点に着目すれば、それが何らかの形で「省無連」等の言説に影響を及ぼした可能性は充分に想定可能である。反面、両者間での人的結び付き等の事実を明らかにした上で、それを基に「省無連」的「極左」派=トロツキスト、「極左思潮」=「トロツキズム」の一系統とそれぞれ断定する事は、現時点では極めて難しい。
 そこで、本報告では人脈ではなく専ら両者の言説に着目し、共通性も含めてその特質について考察することにより、「極左思潮」の性格に関して検討を深める。それにより、「極左思潮」について新たな見方を提示する事を目的とする。


【第4報告】
文革期における派閥構造と成因 ――資源動員論のアプローチから――
                  一橋大学助手 楊 麗君

 本研究は山西省楡次市東方紅紡績工場(文革期の使用名)における派閥対立を資源動員論のアプローチから解釈するものである。文革研究の分野において、派閥構造とその成因はきわめて重要な研究課題であり、これまで多くの研究者によって論じられてきた。紅衛兵運動と労働者造反運動を対象とした先行研究では、大衆組織内部における保守派と造反派の対立構造の形成要因が、文革以前に社会的に構造化されていた出身階級や「パトロン・クライアント」関係にあるということが指摘されている。
両者が関連性を持つことは確かである。しかし、出身階級などの構造的条件、あるいはそれらのある組合せによって生み出される不平不満が必ずしも派閥化の直接的な原因であるとはいえない。階層化された社会構造はすでに存在している社会的関係のネットワークとして、派閥化の触媒になったという可能性も考えられる。それは、資源動員の視点から考えると、民衆の中の土着組織や既存集団のネットワークなどを利用する動員が効果的になるからである。
 また、先行研究は派閥を単一の集合行為者として扱い、派閥メンバーの派閥に対する連帯感と集団忠誠度などの質的相違を見落としている。筆者から見ると、派閥は参加動機や組織との連帯感が異なる人々によって重層的に構造されており、これらのメンバーは派閥に加わるないし離脱する時期や、派閥内部における役割が明らかに異なっていた。したがって、派閥分化要因を論じる際、その多重化された内部構造を分析し、派閥が人々の相互行為を通して構成され、構造化され、再構成されていく細部過程を解明しなければならない。
 これらの先行研究に残された課題を解き明かすために、本研究は資源動員論の分析視点と方法を文革研究に導入し、派閥リーダーを中心とする動態的な分析枠組みを構築した。この際、本研究では@派閥リーダーがいかに形成されたか、A派閥結成において派閥リーダーがどのような役割を果していたのか、B派閥リーダーがいかに資源を動員し、派閥競争を組織したのか、という問題の解明を課題とした。
 東方紅紡績工場における派閥構造と成因を実証分析した結果、以下の結論に到達した。第1に、文革には上部構造によって行われた政治動員と、派閥リーダーによって行われた資源動員の二重動員が存在していた。前者が後者に機会を提供し、その動員の効用と方法を制約する一方、後者が前者の推進的な役割を果す場合もあり、阻害的な役割を果す場合もあった。両者の相互作用によって、文革が発動者の意図から逸脱して進展していくことになり、「党内の資本主義の反動路線を歩む実権派」批判を目的として展開された政治運動が広範囲の派閥対立をもたらした。
 第2に、文革期における派閥対立において、派閥リーダーの組織と動員が重要な役割を果していた。派閥リーダーの組織と動員がなければ派閥対立は成り立たない。この意味で文革期の社会混乱は政治動員の結果であると同時に、派閥リーダー間における資源動員競争の結果でもある。  
 第3に、派閥形成は政治構造過程であり、「四清」運動と文革の逆方向の政治動員によって生じた結果である。文革以前に形成された階級格差や「パトロン・クライアント」関係は、資源動員の要素として派閥形成に一定の役割を果していたが、派閥対立をもたらした直接の要因ではなかった。派閥意識と派閥利益あるいは大衆間の亀裂は、派閥結成後にリーダーの動員・組織に伴う派閥競争の過程で発生したのである。


【第5報告】
社区構造にみる党・国家・社会の変容―ひとつの分析枠組みの提起
                  法政大学大学院博士後期課程  伊藤 和歌子

 本報告では社区の研究におけるアプローチの提起とその検証を目的とする。
 市場経済の導入に伴い単位制度が無力化する中で、1980年代後半から新しい都市における基層単位の管理システムの構築が始まった。それが「社区」である。「社区」建設が始まって以来中国を中心に多くの研究者が社区についての研究を行っている。しかし新出のものであるがゆえに、近年までは社区とは一体何であるか、その実体を詳細に明らかにすることに力が注がれ、社区建設が中国の党・国家・社会関係の変化にどのような意味をもたらすのかという視点からの研究はあまりなされてこなかった。確かに社区居民委員会の自治領域の拡大や、個々の社会組織の性格の変化に注目することで中国の社会領域がどれだけ自律性を獲得しているか、または「市民社会」なるものがどの程度出現しているのか、という視点からの優れた研究は少なくないが、社区構造の変化から党を含めた国家・社会関係全体を視野に入れた研究はまだあまりみられない。それでは全体の変化を把握するためには分析枠組みを必要とするが、一体どのような枠組みがふさわしいのだろうか。
 従来の先行研究を整理してみると、国家・社会関係の変化を捉えるアプローチ方法は@市民社会論アプローチAコーポラティズム論アプローチB国家・社会の相互作用からのアプローチ、と3種類に大別できるが、社区の分析にはどのアプローチが適しているのだろうか。
 その問いの前に、社区建設の過程を見てみよう。報告者自身による近年の北京市朝陽区の現地見学、および天津、青島、上海、瀋陽などの社区資料から、社区建設には大きく分けて次の二つの相互作用があると考えられる。一つは居民委員会、その他組織による自治領域と政府による規制領域の拡大・縮小という相互作用、もう一つは党が街道、居民委員会レベル、そして新興の社会・経済組織ごとに党組織をつくり各組織における指導的地位を獲得しようとする試みである。その最も顕著なやり方が「一肩挑」と呼ばれる党支部書記と居民委員会主任の兼任であろう。しかし現在その方式に疑問が投げかけられ、党組織の機能の限定を主張する意見も出てきている。このような現象を踏まえて、報告者は今後党(党組織)・国家(政府)・社会(居民委員会およびその他の組織)による相互補完システムが出来ていくのではないだろうかと考える。
 3つのアプローチ方法の中で、コーポラティズムは有機的に相互依存する全体の機能的調整に重点を置く、つまり全体の配置の把握に重点をおくと解釈でき、その点では社区の個々のアクターがどのような相互補完システムを作っていくのか、という視点から検証するには有用であると考えられる。しかし枠組みをそのまま援用することには疑問も多い。報告では報告者の提起する「相互補完システム」がどのようなものか、そしてその補助として従来の国家・社会関係をとらえるアプローチの中では最も有用であると思われる「コーポラティズム」論との関係を中心に触れていくつもりである。


【第6報告】
『中国何処去?』 ―LA化論を中心に―

                            獨協大学外国語学部 辻 康吾

1 国家体制?=1980年代初期からの改革開放政策に始まり、90年代からの高高度成長(補注)を経て中国は経済のみならず、政治、社会、文化などすべての分野において急激な変動を続けている。多くの矛盾、課題を抱えながらも、この20余年は中華人民共和国建国以来、はじめて安定と発展の時代が到来したと言えよう。この趨勢は当面のところなお継続するものと見られているが、問題はこの状況を一つの国家体制としてどう理解するかにある。

2 不明な「国の形」=中国は憲法上、社会主義国家とされているが、かつての階級闘争論が実質的に否定され、企業家の共産党入党が認められるなど、少なくとも従来の社会主義体制とは大きく異なるものとなったことは言うまでもない。また政策レベルでは社会主義市場経済と言われるように生産手段の商品化も認められ、市場経済が大幅に導入されながらも、法的には私的所有権(産権)が確立されておらず、政治権力による市場への恣意的介入や干渉が続くなど資本主義としての基本的条件も成立していない。言うならば動物の「四不像」(麋鹿=角はシカ、尾はロバ、蹄はウシ、首はラクダに似ているが、どれでもないシカの一種)のように否定的にしか説明できない体制である。

3 「政冷経熱」=その一方で、言論、集会、結社など国民の人権は厳しい管制下におかれ、基層選挙も実施されず、政治体制改革・民主化は棚上げされている。「政冷経熱」と言われるこうした現状が続くにつれ、これを一つの体制として考え「全体主義体制」「開発独裁体制」、「官僚買弁支配体制」、「権威主義体制」、「社会主義初級段階」など様々な見解が提起されているが、なお定説はない。いずれはより完全な資本主義体制へと向かうのか、あるいは独自の社会主義体制確立へと向かうのか、その展望は描かれていない。では『中国何処去?』(「中国はどこへゆくのか?」)。

4 『中国何処去?』=振り返ってみれば。19世紀半ば以来、中国では自国の未来について、あるいは未来のあるべき姿について、多くの政治家、革命家、改革者、知識人がこの問いと、それぞれの答えを繰り返してきた。文革期には、紅衛兵組織「省無連」のメンバーであった楊曦光が文字通りこの疑問をタイトルとする声明を発表、文革の徹底遂行を呼びかけたが、反革命分子として投獄された(文革後楊はプリンストンに留学、著名な経済学者となったが今年7月メルボルンで死去した)。いまなおこの問いが繰り返されているように、過去一世紀余りのすべての問い掛け、提案は挫折してきたと言えよう。

5 中国現代化の前途=文革以後も中国では論点を変えながら自国の前途を探ろうとする様々な議論が展開されてきた。1980年には廖蓋隆の「庚申改革案」が作成されたが、政治的混乱の中で実施されなかった。しかし90年代に入り急速な経済発展が始まるとともに、それにともなって政治・社会など多くの分野で新たな状況が現れてきた。この状況が長期化する中で、今後の中国の前途をめぐる論議が再び活発化し、かつ現実味を帯びてきた。

6 軟政権化=その中で注目されるのは南巡講話以後の経済の高高度成長と、この発展と裏腹に発生してきた構造的矛盾の深まりにいち早く着目したのが、蕭功秦が提起した中国の「軟政権(Soft State)化」論であった(「"軟政権"与分利集団化:中国現代化的両重陥穽」(『戦略与管理』1994年1期)。蕭は、近代化を急ぐ発展途上国が、旧秩序の崩壊と新秩序の未成立という段階で腐敗が横行し、エリートによる利権の追求が許容され、行政が規範力を失うという国家の「軟性化」の落とし穴(「陥穽」)に陥る可能性を指摘した(「軟政権」、「軟性国家」などについてはミュルダールを参照)。
7 中国の陥穽=この「陥穽」という言葉を使い、さらに広範に中国近代化の構造的諸矛盾を指摘したのは何清漣であった。何は90年代末、政治権力と経済権力の「癒着」構造の中で企業株式化、土地囲い込みなどを通じて強引な「原始蓄積」が進み、この「癒着構造」を支配する政治・経済・知識エリート層が構成する「権威主義体制」が登場していることを指摘した(『中国的陥穽』1998年 邦訳『現代化の落とし穴』草思社・坂井臣之助ら訳)。

8 社会的混乱=また何は政治・経済構造の歪みを明らかにしただけでなく、この構造の中で貧富の格差の拡大、環境破壊、モラルの崩壊、黒社会の成長など社会面での混乱が進行していることを多くの事実をもって指摘した。(2001年 何は米国に渡り現在プリンストン大学の訪問研究員となり、評論活動を続けている)。

9 牽制勢力の欠如=21世紀に入り沿岸地区での急速な経済発展が続きながらも何が指摘したような諸問題は一層深刻化してきた。蕭功秦は、何が指摘した中国現代化の諸問題を歴史的にまた国際的比較の角度から再度提起し「警タ"軟危機"」(『南風窓』2003年4月)(類似資料には「"外資崇拝"与"拉美化"之憂」 李光栄 『南風窓』2004年6月1日がある)を発表した。また「軟危機」が成立してきた政治的条件として蕭は文革後もかなりの勢力を維持してきた保守派の後退と「六四」以後の民主化運動の衰退によって政治権力に対する牽制勢力がなくなり、党・政府の恣意的施策が許されたことをあげている(「中国?革?放以来政治中的自由派与保守派冲突与及其?果」 『当代中国研究』2003年第2期)。

10 「LA化」論=ともあれこうした事態の中で、かつては高速度成長を達成しながらも、やがて衰退していったLA諸国の先例が注目されるようになった。目に触れた範囲ではあるが、2002年以降、「中国のLA化」をめぐる論評、分析が急増し、『中国改革』誌(2002年10期)が「中国拒絶拉美化」と題する特集を組むなど、「中国LA化」論が高まってきた。

11 「LA化」の定義=いわゆる「LA化」に関する特定の定義はないが、「LA化」の結果として@経済危機A政権交代B社会混乱などによる体制的危機の到来を予測するものであり、その原因として次のような点が上げられている。

『中国改革』誌特集「中国拒絶拉美化」=@腐敗がもたらす財政赤字と深刻な両極分化の進行A経済戦略が独立せず、国外資本へ過度の依存B党派紛争と権力のために政治家による国家と人民の利益の売却C内政の不安定による近代化のための発展条件の欠如。
『南方週末』(2003年9月4日)掲載・許向昭「如何避開"LA化"危機」=@高失業率AGDP成長の鈍化B公務員の過剰C福祉政策による財政赤字D通貨膨張E外資の大規模導入Fデモ・ストの頻発G軍事クーデタH汚職腐敗の増加I都市のスラム化J高犯罪率K社会組織の武装化L黒社会の強大化など。
12 民粋主義=この『南方週末』紙の許論文で注目されるのは、「LA化」の原因として「民粋主義」の高まりをあげていることである。「民粋主義」は本来「ナロードニキ」の訳語だが、最近では「ポピュリズム」、「大衆政治」、あるいは最近の日本批判などで見られるような過激化した情緒的大衆運動を指す場合が多い。許論文は「LA化」の病根は「民粋主義」にあり、ラテンアメリカでは情緒化した左翼運動に国家が迎合することによって「LA化」が進んだとしている。

13 中国の「LA化」=「LA化」の実例としてはアルゼンチン、ブラジル、メキシコなど一部LA国家の高高度成長に続く経済不振、社会混乱などが上げられ、また「軟政権化」の角度からはキューバやインドネシアなどの国家名が上げられている。もちろん「LA化」と言っても各国の「LA・軟政権化」にはそれぞれ特定の具体的条件があるものの(地域、国家、民族の相違はもちろん、LAとの比較ではLAがカトリック地域であることが重要であろう)、その条件の多くが90年代以降の中国状況に適応するものであることが注目される。

14 中国LA化と農業=中国の場合、上記の「LA化」指標の中で高失業率、貧富の格差拡大、外資への過剰依存などが注目されるが、最近の動向としては@「三農問題」(「農民真苦・農村真窮・農業真危険」 李昌平『我向総理説実話』光明日報出版など)の深刻化とA「第二次土地囲いこみ」(92年当時の「第一次土地囲いこみ」は公的土地徴発だったが、「第二次」では農地の転売が多い。)が「LA化」との関連でとくに注目される。@については3月の農業税漸次廃止決定以後も農民の貧困化が進行し、郷鎮政府と村の債務は8000億元にも上り(『中国改革―農村版―』2004年8月号) (ちなみに民工の未収賃金は3600億元にのぼるという)Aこれと関連して上級への納税その他の経費(横領も含む)、さらには村名義の違法借り入れの利子支払いを必要とする基層幹部による「第二次土地囲いこみ」は各地で深刻な紛争を引き起こしている。『中国改革』誌が一貫して力を入れてきた法による農民の権利保護について法制度の不備や司法部門が無力なことが問題を深刻化させている(同)。
15 LA型体制の長期化=たしかに中国の「LA化」は、高高度成長、またその余沢を享受している都市住民、輸出に結びついた郷鎮企業主ら、あるいは株式投機、特権的デヴェロッパー、一部知識人にはかつてない恩恵をもたらしつつあり、社会的安定勢力となっている。と同時に、都市・農村格差の拡大、地域内格差の拡大は様々な紛争を引き起こしてはいるが(中央社によれば6〜7月15省の300万人が参加する農民紛争が起きている)、指導部は「安定団結」、「穏定圧倒一切」を第一として強大な合法的暴力機関が(場合によっては黒社会の力を借りてでも)混乱を抑制している(于建?「?村K??力和基?政?退化」 『?略与管理』2003年5期 デモ、陳情取締り、徴税権の転売)。問題は、おそらくこの「LA化」として紹介してきた構造変動はなお進行し、相対的に長期化した一つの「体制化」と考えるべきであろう。

16 民主化の困難=以上の「LA化」傾向を含め、その他外資依存、権力の肥大化など中国が当面している諸問題の現状を総括したのが何清漣の『中国?代化的陷井』(修訂版)序文の「威権統治下的中国現状与前景」(『当代中国研究』2004年2期)である。何は結論として中国の「LA化」を回避するための民主化が必要であるが、当面の政治体制ではほとんど不可能であり、「LA型体制」が長期的に固定化するとともに、いつの日か社会的矛盾が爆発するであろうとしている。

17 大一統体制の完成=ともあれ「中国何処去?」という疑問への一つの回答として「軟政権化」、あるいは「LA化」が進行していることを上げることができるが、その中でも「三農問題」、とくに最近の「第二次農地囲い込み」が示すように少なくとも土地所有関係において伝統的な大一統体制――王ではなく現政権による「普天下無非王土」――が史上初めて完全に成立したと言える(資料○A○B)。同じく「産権・相続権」などの法制の不備は産業面でも同様のかつてない状況が生まれている。中国がこの袋小路を抜け出せるのか、今後の数年の動態が注目されるところである。

(補注)「中国の奇跡」と呼ばれる経済の飛躍的発展の前提として本来的成長以外に次のような条件がある。@旧社会主義からの脱却による生産力の開放(農業生産責任制・一部市場開放)A外資依存B低賃金C農業圧迫(鋏状価格差 統一買付・統一販売の継続)D国有財産の売却E自然破壊(破壊効果はGDPとほぼ同率)など、かなりタコ足経済の部分がある。

○A「(父は)とてもみじめな食事しかくれませんでした。毎月十五日には父は自分の労働者に譲歩して米と卵をやりましたが、肉は少しもくれませんでした。私には卵も肉をくれませんでした」(エドガー・スノウ『中国の赤い星』 筑摩書房『世界ノンフィクション全集9』429頁)

○B「有的?民??,?些税?就是地租。可?去旧社会?民和地主的田,收多少租,事先就商量好了的,起??有一个?准。就是地主要加租,?民?可以拿着租?到政府去告他。而?在的??干部收租想要多少要多少,而且?不?就用"政府"??牌子来?人」(于建?「?村K??力和基?政?退化」 『?略与管理』2003年5期 12?)      ―終わり―


【第7報告】
近現代華北農村における民俗信仰結合と国家権力 ――その構造及び変容――
      日本学術振興会外国人特別研究員(東京大学大学院法学政治学研究科)祁 建民

 本稿は華北農村におけるに民俗宗教の役割及び国家意思との関係を分析する上で、民俗宗教の視角から村落と国家との関係を考察してみる。華北の民俗宗教は神話となっている信念を中心として表れた。宗教の行事は少なく、出欠自由で、教会に相当する組織も規律性が薄く、粗末な廟があるのみであった。このことは華北村落の、個人が中心の社会という特質に対応している。よって、このような緩やかな信仰結合からは強力的な宗教リーダー及び国家権力に抵抗できる勢力は生み出されにくい。民俗宗教信念の内容は善悪の標準を設定し、村民の個人を賞罰の対象として、神の賞罰によって、村落生活の秩序を維持することである。ここでは、国家意思の民俗宗教への浸透は明治政府のような神社組織の整理或は再編の方法を通じてではなく、主にその信念の内容の面から浸透した。この信仰の中に、帝政国家は村落及び村民への厳格的な統治を反映させて、国家権力を象徴する神々が村民の行為を制御していた。村落結合の弱さと国家権力の強さの特徴は民俗宗教をも通じて現れている。清末以来、国民政府時期を通じて、1949年以後は、度々迷信打破運動を行なった。廟を壊し、宗教組織を禁止したが、民俗宗教の核心としての信念は村民のこころから消滅させることは不可能であった。現代、華北農村においては信仰結合が復活した、多数の村民が参与している。国家行政の末端を担った村幹部もこの社会結合に対して反対の立場に立たなかった。この社会結合に順応して、裏で支持せざるを得なかったのである。一方、村民も民俗信仰行事を行なうときに、主動的に村幹部の承認と支持を求め、行政的権威に依頼した。独立的な、村政を離脱した民俗信仰活動は見られない。この活動の中に行政の因子と自発的因子とがともに動いていたのである。ここでも、社会結合と国家行政権力との混成的な構造が表われている。

【第8報告】
中国の電気通信分野における規制緩和 ――90年代の検証を中心に
                  一橋大学大学院法学研究科国際関係専攻 ケ 暁丹

 中国の電気通信事業は80年代末まで、旧郵電部(98年以降情報産業部)の管轄の下で独占的に行われてきたが、90年代に入ってから、一連の改革を通じて、対国内・国外市場の開放が次第に実現された。電気通信分野における規制緩和が従来の政府と企業との関係に大きな影響を与え、中国型の改革・開放の経路を反映する好例だと思われる。本報告は比較の手法を通じて、「行政管理体制改革」という視点から通信分野に関する規制緩和の経緯を解明し、中国の「政企関係」がどのようなメカニズムによって変化してきたのかを分析してみたい。
 計画経済の30年間において、通信業には、「統一指導、分業経営、垂直系統」の行政管理体制が構築された。「上から下までの命令・政策の伝達」という政治的・軍事的な性格、また財政投資を唯一の資金源となる投資体制は中央集権の行政体制を形成する促進要因であった。80年代に入って通信業の遅れは経済発展のボトルネックになってしまったため、中央政府は旧郵電部に対して、投資、税金、料金、外資におけるさまざまな優遇政策を与えていた。この時期においては地方の省郵電管理局への行政分権化は行政管理体制改革の大きな特徴となったと考えられる。
 90年代に入ってから、中国の電気通信事業は抜本的な改革が行われた。通信市場に対する需要の拡大に伴って、専有網をもつ鉄道部、電力部などの専業経済部門が新規参入を図ろうとする圧力を背景に、郵電部は当初、現業部門の電信局を企業法人として独立させ、銀行から莫大な融資により市場の独占を維持しようとしていた。だが、94年の聯通会社の成立および99年と2002年の中国電信の分割にみられるように、通信業における競争体制の構築は急激に進められてきた。その背後には、電信主管部門が電信企業に対するヒト、モノ、カネに関するミクロ管理から、全業界の制度制定および専有網を含む全ネットワークの運営・管理というマクロ管理への行政機能の変化があったと指摘することができる。一方、電信企業に対する人事や資産などの権限が旧郵電部からほかの総合経済部門やマクロ経済部門への移転も見られた。
 本報告は90年代における中国の電気通信分野における規制緩和の経緯に対する分析を通じて、特にベールに包まれてきたこの分野の内部変遷の過程を解明し、その上で、国の独占事業だった各分野において行われた一連の改革の全般的な特徴を見出し、WTO加盟後のその発展方向についても展望を加えたい。