文学・思想―6

文革期映画の再検討―映画言語の継承/断絶の角度から

 

阿部範之(一橋大学大学院生)

 

 従来の中国映画史において、文革期は、建国後の十七年と、現在に続く「新時期」の間の断絶と捉えられ、歴史の連続性を貫く系統的な枠組の内に理解されてきたとは言えない。確かに中国映画は、政治の強い影響下におかれてきたが、政治イデオロギーを軸に全てを語ることが果たして可能なのか。むしろ政治との整合性を図る中で、時に無自覚な形で、芸術としての独自性が表出されてきたのではないか。私は、こうした視点から、六十年代から八十年代初頭における中国映画と政治言説との関係性について検討する。本報告では、文革期の作品を中心に取り上げるとともに、「毒草」とされた文革期以前の作品、及び「新時期」初期に高い評価を受けた「傷痕」映画をも視野に入れ、政治的に正当性を持った「内容」を映画がどのように描いてきたかを分析、整理したい。

 建国後17年の中国映画作品は、何らかの形で政治的な正当性に配慮したストーリーを扱い続けてきた。しかし少なからぬ作品において、ストーリーと映画言語は必ずしもスムーズに調和することがなかったと私は考える。1966年から、劇映画及び戯曲映画の制作中止、一部を除く過去の作品の上映禁止、そして多くの映画人に対する批判及び迫害が実行され、連続的な映画史の流れに終止符が打たれた後、映画制作が本格化するのは、革命模範劇『智取威虎山』の映像作品化(1970年)以降であるが、これら革命模範劇映画は、「根本任務」論、「題材決定」論に適合しただけでなく、「革命的な政治内容とできるだけ完全な芸術形式の統一」が意識された点で、文革以前の作品に対する批判性を備えていたと言えよう。革命模範劇の成果をもとに、舞台の原型を損なわず、なおかつ舞台の制約を取り払い、舞台以上の効果を上げる、という理念に支えられた映像化の過程では、政治内容に還元されない可能性を秘めた映画的手法の使用が「映画化」として批判され、「内容」と直結した「形式」のモデル化が進められることになり、ロングテイクとズームやカメラ移動の併用や、「内容」によって予め規定された善悪の図式を視覚的かつ共時的に表現する手法が、「三突出」原則の実体化と独特の様式美の実現に寄与することになる。模範劇映画に遅れて制作が開始され、1974年に新作公開が始まった劇映画に対しても、こうした手法はモデルとして継承される動きを示したが、リアリズム的演出を基本に残した劇映画の場合、勧善懲悪の図式性が観客の前に明示されることで、逆にステレオタイプとしての平板さが浮き彫りにされたように思われる。そして劇映画制作は、「三突出」を「映画化」する方向へと流れて「形式」の多様化が次第に進み、更には、文革末期の模範劇映画『磐石湾』が、舞台ではあり得ない「映画的」な撮影方法を取り入れるに至る。『創業』、『海霞』など、当時多くの映画が批判の対象になったものの、所謂「陰謀映画」への一元化が確立されることのないまま、「四人組」逮捕によって、「三突出」との暗闘も終結する。そして、一定の「多様化」を1977年以降も続けながら、1979年以降、「現代化」を標榜する中国映画刷新が当時の新人監督たちを中心に展開されることになる。しかし、映画独自の芸術性を開拓しようとした結果、「内容」を表す「形式」への探索に偏る傾向を生んだ当時の映画界の限界が持つ意味を、「毒草」映画批判を含めた、文革期映画のコンテクストを視野に入れて解釈すれば、「新時期」の始まりとともに、文革との断絶が実現したとする映画史観には修正が迫られるように思われる。即ち「新時期」初期の作品もまた、政治に対する映画の自律性を本質的に開拓するものとはならず、文革映画の歴史と連関する要素を多分に含んだものだったのではないか。こうした観点に基づき、本報告では、作品分析を取り入れながら、文革期の映画史的な意義について再検討していきたい。