文学・思想―3

陶晶孫の日本新感覚派的文体の意義

 

 小崎太一(九州大学大学院生)

 

 陶晶孫が1923年3月に九州帝国大学を卒業して以降、最初に執筆したとされる作品は1925年春の『温泉』だが、それから1927年5月執筆の『(音楽会小曲)書後』に至るまでの陶文学に対する従来の評価は、大きく二つに分けられる。

 一つは、そこにリアリズムを見いだす立場である。陳青生・陳永志氏は『創造社記程』で中期創造社を論じる中で、当時の陶文学に「リアリズムへと変換する動向がすでに現れている」(p128)と指摘する。陳氏らは特に陶の『水葬』・『理学士』・『特選留学生』をリアリズム作品だと断定するが、それはそこに、一中国人留学生としての「生活の苦悶」が主題として描かれているからであろう。それはそれ以前の耽美性の強い福岡期文学には見られないことだった。また陶は1927年9月、村山知義の『やっぱり奴隷だ』翻訳を皮切りとして左翼文芸に積極的に参加するが、そのような陶文学の推移も陳氏らの念頭にあったと思われる。

 もう一つは、この時期の創作に当時の新しいモダニズム性、具体的には日本新感覚派的な文体を指摘する立場である。陶自身も1940年代に『日本新感覚派』という文章を記し、『短編三章』の中の、

 

 飞沫,飞沫,飞沫的白,白,白,白; 然后眼睛里是钻头在水晶里的感触,口中吸的空气,吐的水,青空的一细片,还有――还有是他,和她的白的衣裳。

 

を日本新感覚派的文体の例としてあげ、自らその影響を指摘する。厳家炎氏は『中国現代小説流派史』の中で、「陶晶孫の1925、26年の小説はすでに日本新感覚派の影響を受け、用語の新奇さにこだわっていると言わねばならない。……陶晶孫は日本新感覚派の影響を受けた最初の中国人作家かもしれない」(p102)と云う。

 当時の日本文学について、中村光夫は『風俗小説論』の中で、「昭和の文学をよかれあしかれ昭和の文学たらしめたものが新感覚派の運動とプロレタリア文学であるのは周知のことですが、この二つは少なくもその勃興期には、伝統的な私小説リアリズムの否定と抹殺の上に新たな文学の進路を開拓しようと試みました。……新感覚派の作家たちは、日常生活の事実性をそのまま作品の現実性の保証とした私小説リアリズムの否定の上に、言語表現の独立性を強調し、言葉の魔術による作家の心情の造形を希い、マルクス主義文学は、作家が直接に演戯と観察を兼ねざるを得ない私小説の性格から必然に結果する社会性の欠如を衝いて、思想による文学の社会性の恢復を、時代の急務として提示しました。/前者が意図したところは小説の仮構性の恢復であり、後者のそれは小説の社会性の再建であった」(新潮文庫版 p91, 94)とするが、陶の1925年から26年に見られる中国人留学生という自覚の上の生活を日本新感覚派的文体で描いた作品は、その表裏一体の両者の性質を兼ねたものだと言える。

 本発表はこのような当時の陶文学の、中国現代文学史における新たな位置付けを試みるものである。