歴史・社会―4

1945年「外モンゴル独立公民投票」をめぐる中モ外交交渉

 

田淵 陽子(大阪外国語大学大学院生)

 

本報告では、1945年東アジアの国際政治空間において焦点の一つとなった「ヤルタ密約」の「モンゴル独立問題」に関わる、モンゴル人民共和国・中華民国国民政府間における外交交渉と「外モンゴル独立公民投票」の実態を、モンゴル国国立アーカイヴス・モンゴル人民革命党アーカイヴス及び、国史館(台湾)における史料をもとに明らかにする。

1946年1月5日、モンゴル政府は国民政府による独立承認を得た。清朝崩壊後、東アジアの国際政治空間に「矛盾」として内包されていたモンゴル独立問題は、ここに国際法上の決着がつけられた。1924年中ソ協定による「外モンゴルおける中華民国の主権」は法的に無効となったのである。これは、「ヤルタ密約」を受けて中ソ間で締結された「中ソ友好同盟条約」(1945年8月14日)が履行され、「外モンゴル独立公民投票」(同年10月20日実施)の結果を受けたものであった。この投票参観のため、雷法章内政部次長を団長とする国民政府代表団12名がウランバートルに派遣されたことにより(同月18〜24日)、国民政府・モンゴル政府の直接的外交交渉が始まった。とりわけ従来明らかにされていなかった、国民政府代表団の派遣に至る経緯や、ウランバートルにおける滞在日程、チョイバルサン首相・雷法章団長との会談等を復元しつつ、両者の外交的対応を明らかにしてゆく。

周知の如く、蒋介石にとって「外モンゴル独立承認」とは、ソ連の対日参戦と国民政府支持を得るための「最大の犠牲」であり、スターリン主導型で「解決」されるに至った。最終的に蒋介石は対モ交渉に際し、境界線に関する具体的交渉を棚上げする一方で、唯一モンゴル政府代表の重慶訪問により投票結果の報告を受けることを要求した。

 一方、モンゴル政府は、9月21日の小ホラル幹部会において投票実施に関わる指示を公布し、極めて短期間のうちに投票実施の体制を整えた。アイマク(県)・ホト(市)・ソム(郡)・バグ(村)・ホロー(区)・ホリ(二十戸)という行政単位に従い投票者名簿を作成し、全国4,251カ所に投票所を設けた。投票日の翌々日に当たる22日に雷法章団長へ仮結果が報告され、最終的統計によれば投票率98.4パーセント(487,409人)、投票者の100パーセントが「独立承認」に署名した(投票方式は記名投票であった)。モンゴル政府は投票実施に向けて迅速に対応し、その行政管理的権力の充実と蓄積を表示することができたと言える。

また、チョイバルサン首相は、雷法章との会談において11月初旬に重慶へ代表団を派遣し投票結果を報告することを口頭で承諾したが、結局は11月12日付文書で報告され、翌年1月5日、国民政府はモンゴル政府の独立承認を文書で通達した。投票実施とは国民政府側が「形式的なものに留まらざるを得ない」と認識していたとおり、モンゴル政府は対中外交においてどちらかといえば有利な立場にあったと言える。蒋介石の唯一の要求であったモンゴル政府代表による重慶訪問は実現されなかったのである。しかし「ソ連の衛星国」モンゴル政府は国際的正当性を得た一方で、東アジアの冷戦的構図に組み込まれ、日本の敗戦を契機に再燃した内外モンゴル統一の試みは、連合国側の政治的枠組みに組み込まれたことによっていわば外因的に阻害されたのも事実であろう。