歴史・社会―3

蒙疆政権における初等・中等教育の近代化過程

 

田中剛(神戸大学大学院生)

 

本報告では、蒙疆政権支配下の西部内モンゴルをとりあげ、近代初等・中等教育の遊牧地域への普及過程について、教育政策や、近代教育と民族問題との関係を踏まえながら検討する。内蒙自治運動と蒙疆政権に関する従来の研究は、「自治・独立」をめぐる政治思想・政治過程を扱ったものが多い。しながら、この時期のモンゴル人の動向は、単に政治的権利の獲得・強化を目指した運動ではなく、産業、保安、衛生、教育、文化など多方面に及ぶモンゴル社会全体の再生・革新運動として論じる必要がある、と考える。ここで問題とする教育の近代化は、運動に参与した徳王らモンゴル人にとって切実な問題であった。なぜならば、遊牧生活を営むモンゴル人と漢化したモンゴル人が併存する西部内モンゴルにおいて、モンゴル社会内の結合度を強めるためには、その社会内の人々がほぼ同じ文化信念を共有していることが必要であり、同一の言語、共通の価値観といったものを人々に植え付ける統一的な教育システムの構築が必須だからであった。

19344月に成立した蒙古地方自治政務委員会(蒙政会)は早速、各盟旗に師範学校と初級学校を設け、教育事業の基礎を確立することを「自治実施計画」で打ち出した。ところが、学校建設は遅々として進まず、各旗から蒙政会に対して経費補助を求める訴えが相次いだ。蒙政会の教育政策が行き詰った要因は、第一に国民政府からの経費支給の遅滞が挙げられるが、第二にモンゴル社会の特質もあった。遊牧社会のモンゴルでは、牧地の開墾を避けるために、学田開設による自主財源確保が不可能であり、必然的に学校経営は上からの資金援助に頼らざるを得なかった。この状況は蒙疆政権下でも変わらず、遊牧地域での学校建設は、政府中央からの援助や日本の出先機関からの助成金に依存するかたちで進められた。

こうして蒙疆政権では、各旗に小学校、各盟に中学校が設置されたものの、続いて問題視されたのが教員養成と教師の再教育であった。政府は蒙旗小学校教員講習会を開催して教師の指導力向上をはかる一方で、日本留学帰国者を応援勤務者として各旗に派遣し、教師の能力不足を補った。応援勤務者は学校管理事務、旗公署教育行政のほか、教科教授も兼務した。留学帰国者のなかには教師として教育実践に従事した者も少なく、彼ら教育方針は、先進技術の導入とモンゴル文化の復興という融合形態を有していた。例えば、西スニト旗の女子家政実験学校では、これまでの儒教的教育を排除しのみならず、いるるいるうし___________________________________________________________________________________________________________________家畜飼育・畜産品加工、農業等に関する知識・技術が女子学生に教えられた。留学帰国者は日本の先進技術を積極的に受容しつつも、日本のモンゴル侵略・支配に対しては反感を抱いていた。また、モンゴル語を中心に歴史、地理、音楽、詩歌などの教育にも力を入れ、学生のモンゴル人意識を高揚させた。さらに、言語教育だけでなく体操、行進も採り入れ、集団意識を高めることによってモンゴル人の一体化をはかろうとした_________________。こうした努力の結果、蒙地での青少年就学率は急増することとなった。