歴史・社会―1

戦前期の日中間航空路線開設をめぐる両国関係

 

萩原 充(釧路公立大学)

 

 本報告は、1930年代(南京政権期)の日中間航空路線開設をめぐる両国関係に関し、当時の航空政策との関連において明らかにすることを目的とする。

 日中両国の民間航空は、20年代をその嚆矢とするならば、30年代は発展期を迎えていた。中国では3つの航空公司が1万キロを越える国内路線を有しており、日本でも、1928年に設立された日本航空輸送(株)が南北に通じる幹線を開設していた。そのなかで、両国間の航空連絡が日本にとっての懸案事項であった。

 その連絡路線は以下の2路線に大別される。まず、福岡ー上海線である。日本国内幹線(東京ー福岡)の延長に位置する同線は、両国を最短で結ぶ路線でもあった。次に、「満州」路線である。その路線は、東京ー大連線の開設に続く、「満州」各地および「満州」・華北を結ぶものである。

 しかし、これらの連絡路線の正式な開通は日中戦争開始まで実現することなく、日本が華北で展開した「自由飛行」が両国間の摩擦要因となっていくが、本報告は前述の路線のうち福岡ー上海線の開設交渉に焦点をあて、その開設が実現するに至らなかった要因を探るものである。当然、こうした側面は過去の研究でも触れられてきた。とは言え、その大半は外交史のなかで断片的に扱われているにすぎず、航空史における位置づけが欠如しているために、双方の対応に秘められた政策意図がなお不明確である。以上の点をふまえ、本報告では以下の視角をもとに分析を進めていく。

 第一に、中国における民間航空の実態ならびに航空行政の展開過程を視野に含める点である。中国では地域統合の必要から、また陸上交通の未発達を補完する意味で、民間航空は重要な位置を占めていた。また、新分野である民間航空の場合、鉄道・水運とは異なり外国との過去の権益関係に左右されることなく、国家利益に立脚した対外関係を構築することが可能であり、政府もまた主権保持に努めていた。その一例が合弁公司における外資比率規制であるが、こうした姿勢は日中間の航空連絡交渉にも貫かれていた。

 第二に、福岡ー上海線開設をめぐる両国関係と、もうひとつの路線開設問題、すなわち「満州」・華北連絡問題との関連を重視することである。もちろん、両者は性格を異にしている。両国間の対応をみた場合、前者が外務または主管省庁を窓口とする関係であるのに対し、後者は中国の地方政権を対象とした軍主導の関係史であった。しかし、後者の展開過程は前者すなわち中央での交渉に影響を及ぼすなかで、その打開策として日本が求めた方策が後者の局地的な解決であった。その意味で両者は相互規定的な関係にあった。

 第三に、欧米諸国との動向にも留意することである。中国との航空連絡を実施するうえで、日本は欧米各国に比べ地理的な優位性を有していた点は否定できない。しかし、30年代は各国がアジア路線を完成させつつあった時期でもあった。アメリカ、イギリス、フランス、オランダはそれぞれマニラ、香港、ハノイ、ジャカルタに達した路線の終点を中国に求めており、ドイツは中東を経由する航空連絡を模索していた。こうした状況のもとで、日本もまた欧米諸国との対抗と協調を軸とした航空合戦に参入していくことになる。

 以上の分析により、日本が中国の経済建設という舞台において、しだいに孤立化を深めていくなかで、華北分離工作につながる「経済提携」が日中間の新たな火種となっていく時代状況に迫っていきたい。