経済―5

1960年代台湾紡織産業の発展における外国資本の役割−日本資本との関係を中心に−

 

                                                 圖左篤樹(関西大学大学院生)

 

 戦後台湾が労働集約的産業を中心に輸出指向型の経済発展を遂げたことは、多くの論者が指摘するところである。そして、輸出志向型経済発展の牽引役となったのは民間中小企業であり、これら民間中小企業は、1960年代初頭から進出してきた外国資本と結びつき、繊維・電子・電器・機械・プラスチックといったものを中心に、アメリカ・東南アジアへの輸出を拡大させ、台湾経済を牽引してきたことは周知の事実である。とりわけ、繊維産業は1965年には農産品を抜き、1980年代半ばまで工業製品輸出の第1位であり、戦後の輸出指向型経済発展の中心的役割を果たしたと言えよう。

 このように戦後の台湾紡織産業は、1960年代以降輸出の主役となるわけであるが、その担い手は安価な労働力を武器にした民間中小企業であった。しかし、60年代までの台湾紡織産業は公営・党営の紡績資本を中心に発展してきた。1950年代の台湾紡織産業は、戦後の物資不足による綿製品不足や中国大陸からの紡績資本の流入により新興産業と位置付けられ、輸入代替政策が施行された。1950年代初頭には、「台湾省奨励発展紡織弁法」等の産業奨励政策や、「管制棉布進口弁法」等の輸入制限を行った。また、1953年には「代紡・代織制」を発布し、紡織産業を保護した。このように、1950年代初頭には幼稚産業保護という名目で、輸入代替政策が採られた。このような、保護政策の下、紡織産業は紡績業を中心に順調な発展を見せる。しかし、主にその恩恵を受けたのは、公営・党営の紡績大資本であった。当時、綿製品は統制品とされ、政府が業者への分配を行っており、原綿および綿糸の生産・流通過程は政府の管理下にあった。政府の管理する原綿および綿糸は工場の生産規模によって配分量が決められており、大部分の原綿・綿糸は外省人系の紡績資本へと分配され、中小・零細の紡織業はその恩恵にあずかることはなかった。

 このように1950年代の台湾紡織産業は外省人紡績資本を中心とした発展を見せるが、1960年代に入り、新たに「新光紡織」や「台南紡織」といったの本省人資本の紡績業への参入者が出現した。これは、1950年代末の「新規工場設立の禁止」・「工場設備の拡充の禁止」という規制が撤廃されたことによるものである。また、1960年代初頭には「外国人投資条例」・「華僑投資条例」等の各種の外資導入政策が行われ、外資の繊維方面の投資が拡大し、本省人資本が外国資本と結びつく契機となった。

 このように1960年代に入り、外資導入政策が採られたことによって、外資の繊維方面への投資が活発化するが、なかでも日本からの投資は非常に重要な意義を持った。日本繊維産業の台湾進出の理由として、1960年代半ば以降、アメリカの繊維製品輸入制限により、日本からの輸出を減らさなければならなかった。その結果、日本企業は生産拠点を海外へ移転し、そこで製品を生産しアメリカへの輸出を行ったことがあげられよう。このような背景から、日本繊維産業の台湾投資が開始されるが、主な投資内容はアパレルや化学繊維方面であった。なかでも化学繊維方面への投資は後の台湾の繊維生産に大きな影響をもたらした。というのも、1950年代は綿製品生産が中心であったが、1960年代以降、東レ・帝人・旭化成といった化学繊維メーカーとの合弁事業が始まり、化学繊維の生産量・輸出は急増した。また、この時期には日本商社の台湾進出が活発化し、1950年代には主に国内向け生産が主であったのが、日本商社の販売ネットワークを通じて、世界市場へ繊維製品を販売することが可能になった。

 1960年代の台湾紡織産業の発展における日本資本進出の意義は、次の3点である。@日本の化学繊維産業の進出により、台湾での化繊生産が可能になったこと。A日本資本と結びつくことにより、台湾紡織業は生産技術の習得および経営ノウハウの吸収による生産の拡大があったこと。B日本商社との取引による世界市場への販売チャンネルを持つことができたことである。