法律・政治―1

『棠陰比事』にみる中国伝統法のおとり捜査

 

 加藤千代(日本女子大学非常勤)

 

            *中国伝統法=秦による全国統一から清末までの帝政中国における法

 

一 『棠陰比事』について

   作者(撰者)=桂萬栄(南宋の進士)。初刻=嘉定4年(1211)。

   内容=州県官吏の捜査・取調べ実務の参考に供するため桂萬栄が編んだ案例故事集。

和凝・和 父子の『疑獄集』や鄭克の『折獄亀鑑』等を底本としている。

   体裁=2話×72組=144話の案例。同一あるいは類似テーマをペアで一組とした「比事」の体裁。捜査、調査、証拠収集、量刑、等を共通主題として並列比較。

  法制史資料としての位置づけ=資料としての価値は低いが、春秋戦国から宋までの案例全般とその処理・解決の全体像を把握できる点に意義がある。

 

二 中国伝統法の概要と特徴 〜『棠陰比事』におけるその反映

   律を基本法とし、勅・令・格・式等を補充法とする体系的な成文法典が約2000年間、ほぼ一貫して保持された。法の目的は国家(皇帝権力)の維持。その法体系は皇帝による官僚の一元的支配体制を反映し、刑事法と行政法という公法の領域に偏る。

   『棠陰比事』においても殆どの案例が刑事事件・紛争の処理過程に関するもので、特徴的な内容としてわな、おとり、誣告、拷問、儒教的内容、超自然現象等がある。

 

三 『棠陰比事』に描かれたおとり捜査

  おとり捜査・わな関連は144話中の約20%、28話。捜査段階、容疑者逮捕、取調べ、訊問と多岐に渉るトリックは捜査官達の手柄話として賞賛され肯定視されている。

 

四 現代法におけるおとり捜査に関する諸見解 

  欧米ではおとり捜査の是非が20世紀初頭から議論されてきた。論点はおとり捜査官の活動の合法性、おとりによる犯罪行為は刑法上犯罪として成立するか否か、証拠能力の有無、憲法上の問題等。アジャン・プロヴォカテュルの議論に代表されるように、おとり捜査は必要悪として限定的に用いるべき手段とされ概ね否定視。今日、機会供与型は適法、犯意誘発型は違法とするのが通説。おとりは限定的だが積極的で攻撃的。

 

五 伝統中国法のおとり捜査の分析

  『棠陰比事』におけるおとり捜査やわなは捜査、取調べ、訊問等の諸段階で多種の方

法で仕掛けられる。一見無秩序で乱用されているようにみえるが、実は犯人逮捕・犯罪

摘発のための機会供与型に限られている。犯意誘発型は殆ど無い。その方法は情報操

作や遠隔操作が多い。おとりは広範囲だが消極的で守備的。

 

六 伝統中国法のおとり捜査の論理 

  法家思想の観点から=韓非子に代表される法家思想の具現。

  法制度的な観点から=皇帝を頂点とする官僚行政体制における職務としての性格。